第8章 理学部物理学科(大学3,4年)(1974年4月~1976年3月)
8-1. 学部3年の講義や演習
三年生になると,キャンパスは,それまでの駒場から本郷に変わった.このため,通学も,代々木駅からお茶の水駅まで行って,そこからは,都バスを使って大学まで行くようになった.しばらくして,バスよりも地下鉄が何かと便利ではないかと思い,新お茶の水から根津まで千代田線で行くことにした.また,講義の時間が,1コマ120分になったこともあって,朝は,8:00から講義が始まり,10分の休みを挟んで,12:10まで講義があったので,朝は,かなり大変だった.このため,最初から受講を諦めた講義もあり,卒業の時に単位を揃えるのに苦労した.図8-1に,この学年の集合写真を示す.
図8-1 昭和49年度物理学科進学生の集合写真.かつて物理学科のHPに掲載してあった.
印象に残った講義は,鈴木増雄先生の統計力学Ⅰ,有馬朗人先生の量子力学Ⅰなどだった.西島和彦先生の量子力学Ⅱは,板書が,培風館の「相対論的量子力学」の教科書そのものだった.そもそも講義ノートを教科書にされたので,それは当然だったと後で気づいた.
他にも,今井功先生の流体力学(前期)と弾性体力学(後期)の,語りかけるような名講義が印象的だった.今井先生は,我々が3年生の年が最後で定年になられたが,弾性体力学の最後の講義の時に,女子学生さん(河合さん)が花束を渡そうとしたら,あと1回講義があって,今回の講義が最後だとは思っておられなくて,慌てて講義の締めを行われていた.東大でのセレモニーとしての最終講義は,別にあったのかも知れないが,我々の講義が,通常の講義としては,最後だったのかも知れない.
統計力学に付随した統計力学Ⅰ演習も面白く,大学演習 熱学・統計力学の本を使って,よく勉強した.3年生の後期には,統計力学Ⅱの演習があったと思うが,それを担当した助手の先生が,「今年の大学院の入試では,内部の学生が,ばたばた落ちたので,しっかり勉強するように」と発破をかけていたので,大学院入試に対する危機感を感じた.
実際,当時の大学院入試は,物理学科の定員が72名で,大学院の修士課程の定員が,40~50名くらいしかなく,しかも,外部から大勢受けるので競争は激烈だった.内部と外部の定員の区別はなかったが,全体の倍率は5倍くらいで,結果的な内部の競争率は2倍くらいだったと思う.
大学に入学するときに,大学院まで進学することは,ほとんど考えていなかった,というよりも,進路そのものを全く考えていなかったが,学科全体の雰囲気が,大学院は進学するのが当然という雰囲気だった.さすがに,大学院浪人までして受験する気持ちもなかったし,敢えて他の大学に行く気持ちもなかったので,もし落ちたら,どこかの電機メーカーにでも行こうかと思っていた.しかも,当時は,「院落ち」と言って,大学院試験の後でも,十分な就職枠が確保されていたと思う.
3年に進学してから初めてのお正月は,久しぶりに佐世保に帰省し,家族全員が揃ったので(お正月に全員が揃ったのは,これが最後だったかも知れない),盛装して,家の前で写真を撮った(図8-2,図8-3).
図8-2 父と母(昭和50年正月自宅前) 図8-3 兄・姉・私(昭和50年正月)
8-2. 卒業研究と大学院受験
物理学科では,他の理系学部や学科とは異なり,4年生では,オリジナルな研究はできないだろうとの考えで,卒業論文執筆を必修とはせず,研究体験に主眼をおいた,半年単位の研究室配属を行っていた.そして,たとえば,大学院において,理論系(実験系)の研究室を希望する学生には,前期では実験系(理論系)の研究室への配属を希望するようにとの指導が行なわれていた.ただし,前期は,大学院入試の前ということもあり,自由な時間が取れる理論系の研究室を選んで,受験勉強に時間をかける学生が多かったように思う.
私は,以前から,素粒子や高エネルギーの実験に興味を持っていた.そのきっかけの一つは,高校生か浪人くらいのときに,湯川秀樹先生の自伝的随想である「旅人」という文庫本を読んで,基礎的な物理学に興味をもっていたことだった.そこで,その方面の研究室を検討し,高エネルギー物理学という本(図8-4)でも知られた,山本祐靖先生(図8-5)の研究室を選んだ.この他にも,ノーベル賞を輩出することになる,小柴研があったが,体育会系に近かったので,あまり合わなかったと思う.なお,理論系は向いていないのと,実験が好きだったため,理論系への進学は,全く考えなかった.
図8-4 高エネルギー物理(培風館) 図8-5 山本祐靖先生
山本先生は,若い頃,いったん東大に入学したが,戦後の荒廃期であったため,日本で教育を受けることを諦め,米国に渡って高校から入り直し,イェール大学に入学して高エネルギー物理学者になった方である.そして,数年前に米国から日本に戻って,研究室を構えられていた.山本研を選んだもう一つの大きな理由は,当時,一部の研究室ではポピュラーになっていたミニコンピュータが使えるということだった.
山本研究室では,ベストセラーのミニコンであるDEC(digital equipment corporation)のPDP-11を使って,米国の研究所で帰国前に70mmフィルムに撮影されていた,反陽子を泡箱に打ち込んだ時の陽子-反陽子の反応の写真の高精度解析を行っていた.私が4年生になったときは,ちょうどその解析装置を開発しているところだった.
4年生の卒業研究のテーマとしては,当時,ミニコンの外部記憶装置として使われていた紙テープの代わりに,カセットテープを使うためのインターフェースを作成することだった.これは,紙テープは,間違って書き込んだ場合には,その紙テープは,廃棄しなければならないのに対し,カセットテープであれば,何回も修正や再利用ができたからである.もちろん,ミニコンピュータ用の磁気テープ装置は売られていたが,数100万円もするものなので,それを,せいぜい数万円のカセットテープに置き換えようというのが,この研究の売りであった.
この研究のポイントは,ミニコンから8ビット単位でパラレルに出力されるデータを,1ビットずつ直列に(シリアルに)出力されるデータに変換し,それを,(交流変調して)カセットテープに出力する回路と,その逆を行う回路を作成することである.この操作を行うデジタル回路は,1個のLSIとして発売されていたので,そのLSIが動作できるような周辺回路をTTL ICで作成し,それら実装してテストする,というのが卒研の目的であった.
この研究を行うにあたっての課題は,(1)パラレル―シリアル変換を行うLSIの動作を理解すること,(2)それを動作させるための周辺回路を構成するTTLの動作を理解し設計すること,(3)それらをプリント基板として実装すること,(4)それを動作させるためのミニコン側の制御プログラムを作成すること,(5)カセットテープへの入出力を行い,動作確認をすること,であった.このため,PDP-11のミニコンの英文マニュアルを,何度も繰り返し読んだ.そして,Unibusと呼ばれるコンピュータのバスの概念を理解することや,パラ―シリ変換のLSIのマニュアルを理解することに,随分,時間を費やした.また,さまざまなTTL ICの動作を理解するために,そのマニュアルをさんざん読んだ.
前期も後期も,山本研で卒業研究を行い,プリント基板までの実装は終わったが,動作確認をするところまでは行かなかった.でも,山本研で経験した,ミニコンのアーキテクチャーの理解,LSIの動作原理の理解,TTL ICの動作の理解などは,大学院や東芝に入ってからの研究に,大いに役に立った.また,大学院で製作したカセットテープを使った入出力装置は,マイコンシステムの端末として,実際に使用することができた.
さて,大学院入試であるが,高エネルギー実験は,多くの場合,大きな研究グループで実施しなければならないことなどから,個人的なペースで実験ができる,磁性実験の飯田研究室を選んだ.全体の競争率は高かったが,何とか合格できた.
卒業式は,物理学科としては何もなく,物理学科の事務室の机の上に,卒業証書と,それを入れる筒が,名簿順に置いてあって,それを勝手に持っていくだけであった.そこで,機械工学科に進学していた有川君,片桐君,田中君たちの学科の卒業式に潜り込んで,そこの学科主任の挨拶を聞いた.
そして,有川君は,川崎重工に就職するために,神戸の方に行くことになっていて,アパートを引き払ったので,彼が使っていた机や食器などを,私の寮に一時的に引き取った.それは,その直後に,私が寮を出て,アパートに引っ越すことになっていたからである.そして,これらは,現在でも,私の自宅で使用している.
また,有川君が,東京を去る直前には,車を持っていた片桐君が,有川君,田中君と私を車に載せて,首都高などをドライブしてくれた.有川君は,「これで東京もお終いだな」と感慨深く呟いていた.これで,我々の4年間の大学生活は終わりを迎えた.