第7章 教養学部(大学1,2年)(1972年4月~1974年3月)
7-1. 大学での新生活
大学での新生活は,高校3年生の夏に1カ月滞在した,代々木の佐世保市東京学生寮で始まった.この寮は,佐世保市の出身者だけが入ることができ,定員は,1学年は15名,4学年合わせて60名だった.この寮には,その後,4年間生活することになった.
部屋は,2人部屋で,例外はあったが,1年生と3年生,2年生と4年生という組み合わせで入るのが原則だった.確か,1年生の時は,専修大学3年生の木村宗男さん,2年生のときは,中央大学4年生の三浦剛さん,3年生の時は,東京教育大学理学部2年生の石橋晃睦君,4年生のときは,早稲田大学政治経済学部1年生の角田君と同室になった.図7-1に,1年生の時に,寮の建物の1階で撮影した集合写真を示す.また,図7-2には,私が父に送っていた,寮の部屋の配置図を示す.
図7-1 1年生のときの佐世保寮の集合写真.前列から後列に,4,3,2,1年と並んでいる
図7-2 佐世保寮の部屋の配置.上は平面図,下は側面図.
この寮のいいところは,何といっても生活費が安く済むことである.部屋代(月4,000円:光熱費込み)は,地元で親から市役所に直接払ってもらい,毎月の仕送りは20,000円くらいで,十分に生活することができた(寮の食費は,食べた分だけ払う).また,国鉄の代々木駅まで徒歩3分と,場所がいいため,大学への交通費もかなり安かった.また,郷里の友人が集まっていることもあり,ホームシックになることは,ほとんどなかった.
特に,高校時代の同期生だった,山元昭則君(東大文一から法学部),川合昌幸君(東大文一から法学部),山川正人君(東大理一から文学部)らがいて,日夜,法律論や,さまざまな事柄について,議論を戦わせることもあった.このような議論を通して,法律家が,どのようなロジックを使うかということも良く分かった.
図7-3に,この寮の外観の写真を示す.ただし,これは,2000年9月に竣工したNTTドコモ代々木ビル完成後の写真である.その後,この寮は,古くなったこともあり,図7-4に示すように,2011年頃に閉鎖され,解体されたようである.2022年に,その地を訪れたときには,佐世保市に関連する建物も存在せず,当時の面影は全くなかった.ただし,隣接する代々木ゼミナールの建物はあった.
図7-3 東京学生寮の写真(2000年過ぎ) 図7-4 東京学生寮の閉鎖の記事(長崎新聞)
さて,図7-5に,入学したときのクラス写真を示す(47SI21F).このクラスは,ロシア語を第二外国語とするクラスで,このようなクラスは,他にもう一つあった(47SI22F).このように,理科一類(定員1,092人)には,22クラスがあって,ドイツ語未修,フランス語未修,ドイツ語既習,フランス語既習,ロシア語未修というように,第二外国語の選択でクラス分けされていた.現在は,スペイン語,中国語などが人気のようだが,当時は,そのようなクラスはなかった.
図7-5 昭和47年度入学理科一類21組の1年生の時のクラス写真.私は最前列の右端.
ロシア語を選択したのは,当時は,まだ冷戦真最中であり,宇宙航空工学などは,ソ連が大変進んでいると言われていたし,そもそも,ロシア語のハードルが,かなり高く(アルファベットが33文字もあり,単語を発音するだけでも苦労した),自習するのが大変だったと思われたからである.それと,1年先に入学した,山元昭則君がロシア語選択で,ロシア語の良さ,というよりも風変わりな点をアピールしていたこと,浪人中に,既にドイツ語基礎講座を聞いていたことなども,選択の理由である.
なお,ロシア語は,トルストイの小説の翻訳などで有名な,米川正夫先生のご子息(三男)の米川哲夫先生や,川端康成氏の義理の息子さんの川端香男里先生などに習った.そして,興味もあったので,かなり成績も良く,この点は,後述の進学振り分けにも好都合だった.
また,入学時は,授業料値上げ反対のための無期限ストライキに突入していて,入学しても,すぐには,講義は始まらなかった.そして,入学式も,今のように,日本武道館を借りたような大規模なセレモニーではなく,日比谷公会堂で,教養学部長の小出昭一郎先生の挨拶があった程度だった.
クラス担任は,天体物理学の杉本大一郎先生だった.杉本先生は,最初のクラスコンパの時に自己紹介として,「クラス担任は,特にやることはなくて,役目は,退学届けにハンコを押すくらいです」と仰っていた.入学してきたばかりの学生を前に,退学の話をされるユーモアが印象深かったが,それが,大学人の面白いところだろう(杉本先生が京大出身だったことによるユーモアだったかもしれない).また,杉本先生は,自分は京大で,最初は電子工学を選択したが,その後,天体物理の方に進んだと仰っていた.進路に関しては,柔軟に考えるようにとのアドバイスだったのだろう.
さて,クラスの中で,特に親しくなったのは,有川正己君(広島学院),片桐茂夫君(開成),田中護史君(小倉)の3名だった.彼らと特に仲良くなったのは,麻雀の面子として,ほとんどいつもつるんでいたからであった.講義が終わると,特に誰かの都合が悪くない限り,大学の近くの雀荘に直行し,寮の門限(夜12時)まで,よく麻雀をしていた.そして,夜の食事は,雀荘への出前で済ましていた.このメンバーに,たまに広田幸太郎君(富山中部)が加わることがあった.片桐君とは,9年後に東芝に入社するときに,また一緒になった.
大学に入ると,サークルへの入部を考えるのが普通かも知れないが,中学生の時に,3年間,ブラスバンド中心の生活を送っていたトラウマがあった.このため,部活に縛られるのを嫌ったことと,後述する進学振り分けのことを考え,どこにも入部することはしなかった.
1年生の時の夏休みには,佐世保に帰省する途中に,当時,歯磨きで有名な関西拠点のサンスターに勤めていた姉と,奈良観光をするために現地で落ちあって,法隆寺や唐招提寺などを巡った(図7-6,図7-7).
図7-6 法隆寺五重塔の前の写真 図7-7 法隆寺の夢殿の前での写真
7-2. 勉強と進学振り分け
上のような話をしていると,大学に入って,遊んでばかりいたように思われたかも知れない.ところが,東大理科一類の場合には特に,成績による「激烈な」進学振り分けがあり,勉強には手を抜けない状況が常にあった.また,大学に入学したときには,ようやく本格的な勉強ができると思って,講義には関係のない数学や物理の専門書を買い込んで,勉強を始めていた.
進学振り分けは,現在では,情報処理も発達しているので,かなり手の込んだものになっているようだが,基本は,昔も今も変わらず,2年の前期までの成績の平均点で,すべてが決まる仕組みである.ただし,昔は, A(優),B(良),C(可),D(不可)の分布が科目によって,大きく異なっていたようだが,現在は,それらの割合が決められていて(Aは30%など),クラスや選択科目による不平等は,あまり生じないようになっているようである.
2年生の前期終了の時点で,考えていた進学先は,理学部の数学科,物理学科,地球物理学科,化学科,工学部の電子工学科,応用物理系学科(計数と物工)などだった.色々と考えた末に,これらのすべてに共通した基礎となっていて,その後,どの分野にも進める理学部の物理学科にすることにした.物理学科は,かつて,超人気の学科で,進級のための最低点は非常に高かったが,この年は,それほどでもなく,自分の成績が,何とか進学できるレベルであったことも大きな要素だった.こうして,何とか,第一志望の物理学科に進学することができた.このように,「第二の受験」と言われる進学振り分けで,希望の学科に行けたのは,浪人時代に,大学の数学と物理の勉強をしていたためだったと思う.
2年生の後期からは,進学が決まった物理学科の講義が始まった.高橋秀俊先生の物理数学Ⅰは,大変面白かった.大学院に進学することになる,飯田修一先生の電磁気学の講義もあった.数学科の学生が受ける,河田敬義先生の代数学Ⅰなども受講した.ただし,時間割の関係などから,演習を受けることができなかったため,この講義についていくのは大変だった.なお,この年のノーベル物理学賞は,トンネルダイオードの江崎玲於奈先生が受賞されたが,東大の物理学科出身では,初めてのことだった.
図7-8に,その年(昭和48年)の末頃に物理学教室で行われた,江崎先生のノーベル賞受賞記念パーティー(?)の写真を示す.江崎先生の隣に,その同期生の飯田修一先生が写っていて,その向こうに,29年後(2002年)にノーベル物理学賞を受賞されることになる小柴昌俊先生が写っている.他にも,植村泰忠先生,今井功先生,鈴木増雄先生などが写っている貴重な写真である.江崎先生には,後年,筑波大学で接点が生まれることになる.
図7-8 東京大学理学部物理学科で行われた江崎玲於奈先生のノーベル賞受賞パーティー(?)