第6章 大学進学準備期間(1971年4月~1972年3月)

6-1. 自宅での勉強

以前から,浪人するときは,予備校には通わず,自宅で勉強することにしていた.それは,既に自分で勉強するスタイルが身に着いていたこと,通信添削のZ会や,たまに行われる模擬試験などを受ければ,客観的な成績の評価ができることが分かっていたからである.また,何よりも,自分の実力がついているかどうかは,自分が一番よく分かるからである.

父は,予備校に行かずに,受験勉強ができるかどうか心配していた.確かに,外から見て,どれくらい実力が伸びているか,客観的な指標が欲しかったのだろう.それは,いわゆるスポンサーとしては当然の考えである.でも,これに関しては,我儘を通させてもらった.

ただし,受験勉強漬けでは,面白くないというか,モチベーションを保つことができず,また,数学や物理は,大学のレベルのものをやっておいた方が,受験問題でも見通しがいいため,数学としては高木貞治の「解析概論」,物理としては,高3の夏休みに新宿紀伊国屋で購入した,柿内賢信先生の「基礎物理学(上)」の勉強を行った.その時は,翌年,柿内先生の講義を受けることになるとは,全く想像していなかった.しかも,柿内先生が,東大物性研所属のNMRの専門家だったとは.これは,奇跡と言うしかない.

また,NHKのドイツ語基礎講座を聞いた.そして,受験勉強は,Z会の通信添削を中心として行った.また,岩波の数学辞典を購入し,時間があれば,興味ある項目を読んでいた.さらに,その年の暮れには,高橋秀俊先生の「電磁気学」を購入し,ポイントとなるところを読んで,電磁気学を体系的に理解しようとした.というのは,高校の物理の電磁気学は中途半端で,Maxwell方程式が出てこないと完結しない.私は,高専の電気科に通っていた兄の物理の教科書で,Maxwell方程式の存在を知っていたので,それを理解しようとしていた.なお,高橋秀俊先生は,その2年後くらいに,2年生の後半の応用数学Ⅰの講義を受けることになった.

以上のように,大学レベルの数学や物理,そしてドイツ語の基礎などを勉強しながら,受験勉強を行った.このため,2回目の受験の時は,根拠のない自信がついていたと思う.

 

6-2. 上京しての受験

何年も浪人するわけにもいかないので,もちろん東大理科一類は第一志望だったが,第二志望は,当時は国立二期校の九州工業大学とした.そして,力試しとして,早稲田大学理工学部の応用物理学科を受験した.

自宅浪人をしていて,模擬試験を受ける機会が少なかったので,早稲田の受験は,力試しとしては,スケジュール的にも丁度よかった.また,普通に受ければ受かるという根拠のない自信もあって気楽に受けたので,試験はよくできたと思う.早稲田の合格発表は,東大の一次試験と二次試験の間にあった.もちろん,合格していた.また,当時の早稲田の理工学部は,東大の二次試験の合格発表の後に,入学手続きの締め切りがあるので,東大を受ける人の多くは受験していた.

東大の二次試験は,現役の時よりも,かなり良くできたと思った.ただし,合格のレベルに達しているかどうかは分からなかった.合否の発表の連絡は,既に東京にいた山元君に頼むことにして,受験終了後に佐世保に帰省した.

帰省してから,東大に落ちたときにどうするか父に相談した.というよりも,父の方から話があったと思う.父は,会社の同僚などに,東大に落ちた場合,既に合格していた早稲田に行くべきか,二期校の九州工大に行くべきか(さすがに九工大は落ちないと思うが)を聞いたところ,ほとんどの人が,早稲田を勧めたそうである.確かに,早稲田は既に合格しており,九工大は,まだ受験もしていないので,九工大に落ちるリスクを考えれば,早稲田を選択するのが合理的な選択なのだろう.もちろん,早稲田を選択した場合には,学費の問題があるので簡単な話ではない.

結局,色々と考えた末に,父は,東大を落ちた場合には早稲田に行くようにと,入学手続きのためのお金(入学金と前期授業料)を用意してくれた.確か28万円だったと思う.今では,100万円を軽く超える,少なくない金額だった.

そこで,そのお金を懐に忍ばせて,例によって,桜島・高千穂号で上京した.この列車は,西鹿児島駅を15時00分に出発し,鳥栖駅に20時06分に到着する.そこで,佐世保からは,それに間に合うように,17時頃に,急行で鳥栖に行ったと思う.そこから,1晩かけて,山陽本線,東海道本線を経由して,16時06分に東京駅に到着することになっていた.そうすると,17時くらいの発表に,十分に間に合うことになっていた.

ところが,静岡県のあたりで強風があって1時間以上延着し,東大の本郷キャンパスに着いたのは,薄暗くなっていた18時頃だったと思う.薄暗い中,合格発表のボードを見に行ったら,何とか合格していた.確か,今とは異なり,名前が書いてあったと思う.そこで,同級生だった山川正人君の合格も分かった.

佐世保の自宅では,今か今かと連絡を待っていたので,すぐに,電話ボックスから電話をした.この時は,「受かった,山川も受かってた」というような簡単な連絡だった.当時は,東京から佐世保までの電話代は,10秒で10円くらいだったので,1分も話せなかったと思う.

その後は,山元君達がいる,代々木の佐世保寮に行った.確か,山川君は,そこに滞在していたと思う.そこで,お互いの合格を喜び,その日はそこに1泊した.

翌日,受験票を山元君に渡して入学手続き用の合格通知の受取をやってもらい(図6-1),私は,東京駅10:00発の桜島・高千穂号で佐世保に戻ることにした.確か,3月20日が合格発表だったので,佐世保の自宅に戻ったのは,3月22日の午前中だった.

当時,県北の大学合格者は,新聞の地方版(県北版)に掲載されることになっていたので,私が合格したことは,3月21日の朝刊に載っていたらしい.そこで,父の知り合いから連絡が来たり,私の高校時代の友人から,合格祝いの電報や電話などが来ていた.

この後は,ゆっくりする暇もなく,上京する準備などを始めた.佐世保寮に入る手続きは進めてもらっていたので,住むところは何とかなったと思うが,親は,何かと大変だったのではないかと思う.でも,何とか,長い受験生生活から,成功裏に抜け出すことができた.

この1年は,浪人中ではあったが,私の人生の中で,最も充実していた年の1つだと思う.また,今にして思えば,両親には,いくら感謝しても感謝しきれない.

図6-1 合格通知