第5章 高校生時代(1968年4月~1971年3月)

5-1. 高校1年生

佐世保北高校には,越境入学で入学したので,同じ中学(山澄中学)から来た生徒は少なかったが,クラス分けされた1年5組には,小学校からの親友である竹田和夫君,そして,知り合いでもある犬塚佳美さんもいて心強かった.

また,この高校は,長崎県北トップの進学校ということもあり,県北の各地域の中学のトップクラスの生徒が集まっていた.例を挙げると,吉井町の相知賢二君,世知原町の渕健二君,崎戸町の岩瀬久三君,久保田明君,前原喜彦君,町名は忘れたが(佐々町?),鴛淵和明君などである.彼らは,ほとんどが下宿して通っていたか,長距離の電車通学だった.女子生徒さんの中にも,五島列島などの中学から来ている人もいた.

また,佐世保市の南部を中心とした学区の佐世保南高と違って,佐世保市の中央部から北部の地域からの出身者が多く,私の出身中学の学生とは,違った雰囲気の生徒さん(男子も女子も)が多かった.このため,若干,カルチャーショックを受けた.

図5-1 高校1年生のクラス写真.クラス担任は鹿島孝澄先生.副担任は比嘉先生.

 

入学式の時に,入学者を代表して挨拶をしたのは,清水中学出身の川合昌幸君で,彼とは,2年生の時に同じクラスになって親しくなった.また,大学では同じ寮(佐世保寮)で2年間一緒になった.彼は,東大文科一類現役合格だけでなく,司法試験にも法学部在学中(21歳)に合格した大秀才だが,寮で一緒のときは,色々と貴重なディスカッションをしてもらった.彼は,後に判事となり,有名な事件の判決を沢山書いた.そして,広島高裁長官を最後に停年退官となった.今でも交流は続いている.

さて,1年5組の担任の先生は,国語の鹿島孝澄先生で,九州大学文学部出身の28歳くらいの若手の先生だった.副担任は,数学の比嘉先生だった.鹿島先生は,1年5組在籍中に,お子さんが生まれたので,男子生徒何人かと女子生徒何人かで,ご自宅(大宮町あたり)にお祝いに行った.借家の部屋が2階にあって,階段が急で,近くを,佐世保線の鉄道が通っていたのを覚えている.

鹿島先生とは,高校卒業後も交流があり,竹田和夫君が九州大学医学部,杉谷雅彦君が長崎大学医学部に合格した直後に,3人一緒に,鹿島先生のご自宅(その時は,高校の近くに引っ越しされていた)に,合格の報告に行ったことを覚えている.私は,その1年前に合格していたが.

このクラスは,私の高校時代唯一の男女クラスだったこともあり,特別な印象が残った学年だった.図5-2に,私が入部した化学同好会の3年のときの写真を示すが,3年生の女子生徒7人全員が1年5組の出身であった.なお,1年5組の男子生徒は,私と竹田和夫君と相知賢二君の3人であった.

図5-2 化学同好会の3年生のときの集合写真.中央が会長の私.副会長は木崎さん(右端)

 

さて,数学の授業の最初に,担当の比嘉先生が,全員の生徒に対して,どこまで教科書の予習をしてきたかを問いかけてきた.それに対し,ほとんどの生徒は,大して予習をやっていなかったが,私は,10ページくらいと答え,柚木中学出身の品川知明君(現:医療法人道仁会品川医院院長)は,30ページくらいやっていて,彼だけがほぼ合格だった.そこで,比嘉先生は,「高校に入って,こんなことでどうするんだ!」と,甲高い声を出して,ブチ切れておられた.

もちろん,今にして思えば,ショック療法としての演技だったと思うが,当時は,私はそれを真に受けて,比嘉先生はやばい先生だ,という印象だけが残った.でも,ほとんどの生徒が,この高校には,「有名大学に合格するために」来ているので(特に(言葉は悪いが)僻地から来ている生徒は,その思いが強かったと思う),このように,覚醒を目的とした指導は悪くないと思った.

1年生の時の理科の授業は,化学や物理はなく生物だけだった.生物の先生のお名前は忘れたが,大変印象に残る先生だった.特に科目としての生物が好きだったわけではないが,暗記は得意で,サイエンス全般に対する興味もあったので,生物の成績は良かった.また,この先生が,最初の授業の時に,「動物と植物の違いは何か?」と問いかけて,生徒一人ずつ全員に答えさせ,多くの生徒は,「動物は動くが植物は動かない」というような陳腐な答えをしていたが,(予習をしていた)私だけは,「動物の細胞には細胞膜がないが,植物の細胞には細胞膜がある」と答えて,先生に強い印象を残したと思う.

また,最初の生物の定期試験で,生徒の成績が全般的に振るわなかったため,先生が,成績優秀者の名前を読み上げたことがあった(成績を読み上げたのは,問題そのものが難しいのではなく,勉強が足りていないことを生徒に周知させる効果がある).90点台(94点くらい)は,私だけで,2番目(88点くらい)は,後に九大医学部の教授になった前原喜彦君だった.大変誇らしいことだったので,非常に記憶に残った.

この高校では,定期試験や実力試験の学年成績ランキングは,プリントや,巻紙(場所は高校の本館2階)にして貼り出していた.私は,最初の定期試験では,学年で30番くらいだったと思う.さすがに,県北の中学から,勉強に自信のある生徒が集まっていたので,この成績は,そんなものだと,妙に納得した.ただし,巻紙にして貼り出すのは,受験競争を煽るという点で,高校2年生の夏休み明けから,「ある事件(後出)」をきっかけに,止めることになった(と思う).

定期試験や実力試験の成績は,その後の1年間で,少しは上がったが,全体で10~20番くらいだったと思う.このため,1年生の最後の進路調査では,志望校は九州大学工学部と答えた.九大工学部は,従兄も進学したところだったし,成績としては,そのあたりが妥当なところだったと思ったからである.この成績は,2年生になってかなり上がった.それは,2年生のところで説明したい.

なお,学生運動の過激化で,この年度の東大と東京教育大の入試はなくなり,3年生の化学同好会の京大志望の先輩は,そのあおりも受けて,受験では苦労されたようだった.そんな時代だった.

 

5-2. 高校2年生

2年生のクラスは,2年12組の男子クラスで,担任は,英語の福地先生だった.福地先生も,鹿島先生と同じく20代後半の先生で,2014年に東京で開催された佐世保北高校の同窓会で,約45年ぶりにお会いした.福地先生は,このクラスの担任をした直後に,前触れもなく佐賀県に転勤になられたが,その裏話を話していただいた.

福地先生は,元々佐賀県のご出身で,以前から,佐賀県への転勤の希望を出されていたが,この2年生の担任の年には,何も事前の打診もなかったので,転勤はないと思っていたが,その年の年度末のある会合で,長崎県と佐賀県の教育長が会う機会があって,その時に,互いに相手の県への転勤を希望する教員がいるという話が出て,急遽,互いの転勤が決まったそうである.このため,担任の生徒に対する転勤の話などは,一切,できなかったそうである.

なお,この写真を見ると,副担任は河原先生で,日体大出身で,箱根駅伝にも出た(という噂の)体育の先生だった.特に,太腿の筋肉は凄かった.体育の授業で,全員で走るときには,常に先頭で走っておられただけでなく,20kmくらいの烏帽子岳中腹までの長距離走でも,トップで走っておられた.

図5-3 2年生のときのクラス写真.クラス担任は福地先生.副担任は河原先生.

 

さて,佐世保北高校は,男子と女子の別々の定員があるわけではなく,単に,成績で合格を決めていることもあって,どうしても,男女の生徒数にアンバランスがあり,このため,ほぼ必然的に,男女同数の男女クラスと,男子ばかりのクラスができていた.クラスは,全部で12クラスあったが,その内,3クラス(10,11,12組)くらいが,男子クラスだったと思う.

2年生は,まだ,文系と理系のコース分けはなかったが,3年生に進むと,就職や専門学校などをメインにするクラス(2クラスくらい),文系進学のクラス,理系進学のクラスに分けられた.また,理系には,女子が少なかったため,理系の女子は1つのクラスにまとめられた.

2年生になると,勉強が面白くなってきたこともあり,また,成績をもっと向上させたいという思いから,特に,英語力をつける努力を始めた.これは,英語力が,元々低かったことと,英語の試験は,数学に比べミスが比較的少なく,着実に点が取れるためである.

そこで始めたのが,原仙作の「英文法標準問題精講」である.これは,名著である「英文標準問題精講」の姉妹書で,主に英文法にフォーカスし,穴埋め問題や,書き換え問題が中心の本である.この本をやることによって,目立って,英語の成績が上がった.英語の読解力を身に着けるためには,時間がかかるが,パズルのような文法問題を解くのには,そんなに時間はかからなかったためだと思う.そして,その後に,「英文標準問題精講」に取り組んだ.この参考書には,歴史的な人物(EinsteinやRussellなど)の名文が沢山取り上げられており,英語だけでなく,さまざまな教養の涵養に役立った.

また,自宅から高校までは,バスで通学するのが世間常識だったが,十分に歩けることに気づき,バスの定期券代を自分の懐にいれて,往復歩くことにした.私の自宅は,海抜80mくらいの場所にあったので,朝は主に下りを利用して25分くらい,帰りは,主に上りだったので,40分くらいかかった.また,その時間を利用して,毎朝,20個の英単語を覚える習慣を身に着けた.同時に,恒例の20kmの長距離走の成績も,目立って向上した.

このような平和な日々を送っていたが,1学期の最終日(7.19(土))に,とんでもない事件が起きた.クラスでは,いつも,1番目か2番目に登校していたが,登校すると,クラスの教卓の上に,何か,チラシのようなものが置いてあった.実は,登校前に,学校の一部が,バリケード封鎖され,屋上から垂れ幕が下げられていたらしい.私が登校したときには,もう片付けられていたが.これは,村上龍(実名は村上龍之助:1学年上)の69という小説のメインテーマの一つの「佐世保北高校バリケード封鎖事件」である(図5-4).また,図5-5には,横断幕が下げられていたという校舎の前で写った写真を示す.ただし,この写真は,封鎖事件とは全く関係ない.

一般の生徒には,その顛末は,あまり知られていなかったが,この封鎖に参加した生徒達は,無期停学(実際は3ヶ月)となったらしい.村上さんは,高校の生徒総会の時に,生徒会長(久田真吾さん:東大法学部を経て弁護士)や議長(久保田明広さん:東大法学部を経て検察官)に,難しい議論を吹きかけていたので,生徒の間では,一種のヒーローとして有名だった.また,その御父上は,山澄中学の美術教師だったこともあり(姉は習ったらしいが,私は直接の接触はなかった),その点でも接点があった.

さて,このような事件はあったが,自分としては,いかに学力(成績)を上げるか,というのが最大の関心事だった.そして,この高校では,夏休みには,補習という,高校教師による1日に数コマの有償の授業があったが,その頃までに,勉強は自分でやる,ということが身に着いていたため,学校には毎日登校するが,補習は受けずに,冷房が完備した図書館で自分で勉強することにした.他の生徒が,暑い中で授業を受けているときに,自分だけ冷房が効いた図書館の中で勉強しているのは,気分も良く,大変効率が良かった.

休み明けの9月1日には,早速,実力試験があったが,勉強の成果が発揮できたと思う.なお,この年には,長崎国体があり,9月初旬の夏の大会が開かれた佐世保市のプールで,ボーイスカウトに割り当てられた奉仕活動に参加した.

なお,クラスの友達との交流などもあり,田平智君,神山秀純君などと,よくつるんでいた.他にも,川合昌幸君,八木稔君,村上俊雄君,原野直也君(プリクラの発案者),廣渡恒治君などとも親しくなった.

このような友人との交流もあったが,日々の習慣の中心は勉強であった.校内試験の成績も,英語を中心に,だんだん上がって,学年で1桁の順位になった.そして,第三回の旺文社の全国模試では,全国で60位くらい,全校順位で1位(くらい)になった.そして,そのときは,志望校は東工大と書いていた.それまで,九州の中しか視野になかったが,全国を視野に進路を考えるようになった.これは,日比谷高校の教員だった森一郎氏が執筆した「試験に出る英単語」というベストセラーの参考書を,たまたま姉が購入していて,それを読んだことによる影響だったと思う.

そして,2年生の最後に行われた進路希望調査には,良くは覚えていないが東工大と書いたと思う.

このように,勉強中心の日々を送っていたが,2年生で参加した3年生の卒業式には,「卒業式粉砕」を叫ぶ生徒が,式場に乱入しようとし,機動隊(警官隊)が導入された.このようにして,騒がしいながらも,自分としては,充実した2年生が終わった.

図5-4 バリケード封鎖事件の新聞記事(長崎新聞)   図5-5 北高校の本部の建物の前で

 

5-3. 高校3年生

3年生のクラスは,3年10組で理系の男子クラスだった(図5-6).担任は,数学の一ノ瀬先生,副担任は覚えていないが,写真を見ると比嘉先生だったかもしれない.

3年生になると,半分くらいは既に知り合いだったので,新鮮味はあまりなかったが,中学校以来の友人である杉谷雅彦君や,大学でも同期・同窓で,佐世保市東京寮でも一緒になる山川正人君と初めて同じクラスになった.

図5-6 高校3年生のクラス写真.担任は一ノ瀬先生.副担任は比嘉先生.

 

勉強には,ますます集中するようになったが,以前から気になっていた「大学への数学」を毎月購入して,可能な時には,「学力コンテスト」に投稿するようになった.この「学コン」の問題は,高校生のレベルを超えており,誌上で発表される学コンの成績上位者には,その後,高名な数学者になった人も多く,また,超有名進学校の受験界のスターみたいな人も多かった.私は,1回だけ,成績優秀者として名前が載って,「大学への数学」の誌名が入った筆箱をもらったことがある.

このようにして,受験勉強と学問への憧れが両立し,益々,受験勉強にも身が入った.一方で,電子工作への興味も続いていたが,趣味にはまると勉強が疎かになると思い,しばらくは封印することにした.

このような状況の中で,受験雑誌(蛍雪時代)を見ていると,夏期講習の宣伝が大変気になった.高校2年生のときは,高校の補習を避けて,図書館で自習をするという選択をしたが,このときは,外の世界を見てみたいという思いが強かった.

現実的に,どのようにしたらいいか,分からなかったが,姉の友人が,代々木の佐世保東京学生寮にいて,夏休みの間は,佐世保に帰省して不在なので,そこに滞在して,東京の予備校の夏期講習に通ったらどうか,という話になった.お金もかかる話なので,すぐに決まった話ではないが,両親は,そのあたり敏感に感じていたようなので,結果的には,東京の駿台予備校の夏期講習に通うことになった.ただし,昼間の午前も午後も,枠が一杯だったので,夜間のコースに行くことにした.

そこで,夏休みになり次第,寝台特急さくら号に乗って,佐世保から東京に行った.19時間くらいいかかって東京駅に着いたが,出迎えの人が来ていなかったので,まず,東京駅を出て,東京都区内地図を購入し,どのようにして行こうかを考えた.本来ならば,東京駅から,中央線に乗って,新宿駅まで行き,そこから,山手線か総武線に乗って,代々木駅まで行けば良かったのだが.

ところが,すでに,八重洲口から東京駅を出ていたので,代々木の東京学生寮に一番近い駅はどこかと,探していたら,小田急線の南新宿という駅が見つかった.そこで,地下鉄銀座線の京橋駅から,どうにかして新宿まで行き,そこから,代々木の東京学生寮を目指して歩いて行った.途中に,目印となる,中央鉄道病院の横を過ぎたが,そこは,それから13年後に,長女が生まれることになった病院である.

何とか,目的地の学生寮に着き,受け入れの手続きをして部屋に入ると,しばらくして,出迎えに来るべき人が慌てた様子で来た.その人は,何と,寝坊して間に合わなかったとの事だったが,結局は無事でよかった.このようにして,波乱の東京生活が始まった.

駿台の授業は,特に,格別なものではなかったが,お茶の水という東京の中心部で,恐らく首都圏の生徒が大多数の中で,そこそこのレベルの講師の授業を受けたのは,いい経験となった.それよりも,東京の各地を,電車などで訪れたことが印象的だった.特に,本郷の東大キャンパスは,やはり極めて印象的だった.

なお,夏期講習の途中で,予約奨学金の面接で,佐世保に一時的に戻らなければならなかった.そこで,高価な寝台車ではなく,全自由席の座席急行,桜島・高千穂号などを使って,東京と佐世保間を往復する方法を見つけ,学生のときには,さんざん利用した.東京-佐世保間で,片道23時間くらいかかったが,一番安かった.

さて,高校3年生の夏休みに,進路に関する三者面談があった.ところが,私は駿台予備校に行って不在だったので,母と一ノ瀬先生の2人で面談したとのことだった.この面談で,母は,一ノ瀬先生から,東大を受けさせてみてはどうですか,と言われたそうである.なお,夏休み前の進路希望調査では,京都大学工学部と答えていた.それは,成績が上がったので,2年生のときの東工大志望から,少しランキングを上げたためだと思う.

3年生になってからも,成績はコンスタントに上昇していたこともあり,担任から見て,東大合格者を増やしたいという気持ちは,分からない訳ではない.ただし,自分としては,そこまでの実力が伴っているとは思っていなかった.

ところが,東京に夏期講習に行ってみて,実際に東大の本郷キャンパスを見てみると,実力はともかく,入学してみたいと言う気持ちが起こらないほうが不思議である.でも,問題は実力である.このような経緯はあったが,浪人することも厭わず(当時は,一浪人並(いちろうひとなみ)と言って,一浪するのは普通のことと思われていた),結局,東大理科一類を志望することにした.

実力が不足していることは,自分が一番よく知っていたので,それなりに勉強した.当時は,予備校の模擬試験による合格判定はなかったが,30%くらいの合格率ではなかったかと思う.

受験では,東京オリンピックの選手村だった代々木スポーツセンターに宿泊した.元々,一浪しても良いと思っていたので,東大理科一類しか受けなかった.一次試験は問題なく通ったが,二次試験は,力が出し切れなかった,というよりも,明らかに力不足であった(図5-7に受験票を示す).3月20日に合格発表があったが,頼んでいた電報には,「サクラチル」と書いてあった.それなりに落胆したが,仮に受かっていても,入学してから,かなり苦労していたと思う.

なお,同じ学年から,山元昭則君と川合昌幸君が文科一類,中島喜勝君が文科二類に現役合格した.これに対し,私と山川正人君は,理科一類を不合格になったが,どちらも,翌年,雪辱を果たすことになった.

図5-7 現役のときの東大受験票.不合格のため手元にある.