第4章 中学生時代(1965年4月~1968年3月)

4-1. 中学1年生

白南風小学校を卒業してからは,山澄中学校に進学した.この中学には,隣の潮見小学校からも進学するので,知らない級友が一気に増えた.

中学1年生の時の担任は,土肥台男先生という男の英語の先生で,台湾で生まれたのでそのような名前がついていると聞いていた.また,小学校6年生のときのコーラス部の顧問の先生が,土肥先生の奥様だったので,何となく親近感があった.

この土肥先生は,不真面目な生徒などがいると,ビンタをするのが有名で,私も,1年間で1回くらいは,ビンタをされた記憶がある.結構,痛かったが,耐えられないほどの痛みではなかった.また,生徒によっては,何回も,ビンタを食らった生徒もいた.でも,今だったら,体罰として大変な問題になっていただろう.

図4-1 中学1年生のときのクラス写真(担任:土肥台男先生,学年主任は日高先生,副担任は浦先生)

 

さて,中学1年生の入学式の時に,ブラスバンドが,格好いい行進曲などを何曲も演奏していて,それだけを見て,ブラスバンド部に入ることにした.ブラスバンド部は,今でもそうだと思うが,内部は,いわゆる体育会系で,先輩は「さん」付けで敬語を使って話し,また,学校の中や校外でも,会った時には,会釈をするというのがルールだった.

また,練習は,日曜日を除く毎日放課後,そして,コンクール前は,日曜日にも部活があった.そして,練習をさぼる生徒や,先輩の言うことを聞かない生意気な生徒には,一部の先輩からの私的な制裁があった.当時は,このような私的な制裁は,珍しくなかったと思う.なお,楽器は,小学校のときから好きだった縦笛の延長で,クラリネットにした.

さて,勉強の方だが,定期試験(9教科)は年に5回(1,2学期は,中間と期末,3学期は期末のみ),その他に,実力試験(主要5教科)という試験範囲なしの試験が,年に3回くらいあった.そして,私の学年では,総得点の順位の1番から150番までの名前が,プリントで教室に掲示されていた(1学年の生徒数は,500人くらいだったので,全体の1/3くらいが掲示された).

小学校の頃には,そのような習慣はなかったので,誰が,どれくらいの成績なのか大変興味があった.1歳上の兄は,いつも成績順位は1桁の上の方だったので,私も,それくらいだろうと思っていたが,最初の定期テストでは,学年全体で6番だったので,自分でも,そんなものだろうと,それなりに納得した.

私の学年で,1年間,ほぼトップを続けたのは,小学校4年生の時に,呉市から白南風小学校に転校してきた蔵本誠三君である.彼の御父上は,海上自衛隊の高級幹部だったので,定期的な移動で転勤して来られたようである(後日,防衛大学校の教授になられたと聞いている).

彼は中学1年生の終わり頃に,また転校して行ったが(出身高校は広島大学附属高校),私が大学に入学した年に,大学(東大駒場)の掲示板の前で,奇跡的に遭遇した.彼は,その1年前に文科一類に合格していたので,翌年,私が理科一類に合格したのを,知っていたとのことだった.また,私が結婚した頃には,家内の中学・高校時代の親友(私の新居にも遊びに来られた)が,蔵本君の秘書をやっていたそうで,これにも驚いた.彼は,三井不動産の常務でCFOまでやられた方なので,確かに,当時からずっと優秀だったのだと思う.

中学1年生の時は,勉強とブラスバンド部が中心だったが,その他には,小学校以来の電子工作などを趣味としていた.そして,真空管を使ったラジオ(6BA6を使った超再生受信機や,中間周波2段増幅のラジオなど)などを作り,BBCやラジオオーストラリアなどの放送を聴き,BCLカードなどを集めていた.そして,その頃の愛読書は,「ラジオの製作(ラ製)」と「無線と實験」だった.この電子工作の趣味は,大人になるまでずっと続き,大学院学生や研究者になってからの研究にも大いに役立った.

図4-2 ラジオをいじっているところ           図4-3 プラモデルのフィギュア遊び(コンバット)

 

4-2. 中学2年生

中学2年生の時の担任は,松永先生という国語の女の先生だった.

2年生の時には,半年間,生徒会長をやった.というよりも,やらされた,というのが正確である.というのは,目ぼしい立候補者が誰もいなくて,1歳上の兄が,生徒会長を1年間やっていたこともあって,弟もできるだろう,という先生達の打算的な判断によるものだった.

そこで,立候補締め切り前のある日の放課後,職員室に呼ばれて,担任の先生から(?),生徒会長に立候補するように説得された.悔しくて,涙が出たが,ほぼ命令に近かったので断るわけにもいかず,涙ながらに承諾した.全校生徒参加の立候補の演説では,一応,まともなことを言ったので,簡単に当選した.対抗馬は,いなかったか,いても泡沫候補だったと思う.それこそ,泡沫候補が生徒会長になったら,学校側としては困ったのではないだろうか.

ただし,生徒会長と言っても,やることはほとんどなく,中学校のプールが新設された時の式典で,代表で挨拶文を読んだことぐらいだろうか.その時の挨拶文は,担任の松永先生が書いてくれたので,それを読むだけだった.確か,「灼熱の太陽が照り付ける今日の日,....」などという文だった.当然だが,生徒が書ける文章ではない.なお,生徒会長は半年の任期で,後半は,同じブラスバンド部の山下弘美君(図4-4で大太鼓を叩いている生徒さん)が立候補したので,目出度く,お役御免となった.

図4-4 ブラスバンドによる吹奏楽祭(佐世保市民会館).左端の最前列が,第一クラリネットの私.

 

中学2年の時の特別な思い出としては,8月に,1週間くらいの日程で,ボーイスカウトの日本ジャンボリーの参加のために,岡山県の津山市近郊の自衛隊の日本原駐屯地に行ったことである.

日本ジャンボリーというのは,4年に1回開かれるボーイスカウトの全国大会で,全国各地から,ボーイスカウトの代表が1か所に集まり,キャンプをして,色々なイベントをやるお祭りである(図4-5).また,この時,当時の皇太子殿下(いわゆる平成天皇)が来られ,その前を,みんなで行進した記憶がある.

その他には,合間を見つけて,日帰りで,バスで鳥取砂丘(図4-6)に行った.でも,何にもなくて,こんなもんか,と思った記憶がある.九州から出たこと自体が,初めてであったこともあり,色んな意味で,大変記憶に残るイベントだった.また,バスでの行き帰りの途中に,岡山の後楽園(図4-7)や,岩国の錦帯橋(図4-8)を訪れた.なお,このときの隊長は,金子さんという方で,脚本家で有名な,金子成人さん(2005年の大河ドラマ「義経」の脚本家)であり,この方も,佐世保市内の他の団のボーイスカウトに所属されていたので,拝見したことがある.

図4-5 野営地で(後列左から2番目)                図4-6  鳥取砂丘

図4-7 岡山の後楽園(先頭)              図4-8 錦帯橋(最前列左端でしゃがんでいる)

 

なお,このための旅費を捻出するために,ボーイスカウトの班ごとに目標を定め,廃品回収などを行ったことも,いい思い出である.制服を着て,地域の各家庭を回り,なぜ廃品回収をしているかのチラシを差し出し,古新聞や,金属材料などを集め,廃品業者に持って行って旅費の足しにした.

勉強は,特に可もなく不可もなくであり,順位は,学年でいつも1桁であった.数学,理科,社会が面白かったのを覚えている.国語は,今でもそうだが,ロジカルではないので,あまり好きではなかった.

 

4-3. 中学3年生

中学3年生になると,担任は,また土肥先生になった.ブラスバンドは,相変わらず続けていたが,最高学年になったので,副部長になった.パートはクラリネットで,1年生に何人かクラリネットに入ってきたので,それを指導するのも,3年生の大切な役割となった.

図4-9 中学3年生のときのクラス写真.クラス担任は土肥先生,学年主任は深見先生.

 

その1年生の中に,永田さん,という女子生徒がいた.その時は,特別な印象を持った生徒さんではなかったが(もちろん記憶には残っていた),永田さんは,10数年後に,私が佐世保北高校に進んで,高校・大学での親友になった山元昭則君の奥さんになった.佐世保市の鹿子前の「海浜ホテル」で行われた結婚式にも,呼んでいただいた.

山元君は,大変優秀で,高校卒業時の席次は1番,東大文科一類現役合格,司法試験にも在学中に合格した大秀才である.彼は,司法修習を終えて,地元の佐世保で開業する時に,地元の名門銀行である親和銀行に,開業資金の融資の依頼に行ったときに,その窓口にいた永田さんを見初めたそうである.そして,話していく内に,私が共通の友人だと分かり,大いに盛り上がったそうである.

また,永田さんの叔父さん(伯父さん?)に,永田龍馬さんという方がおられた.前にも書いたが,この方は,私が小学校3年生の時に,カブスカウトに入った時の隊長さんで,大変お世話になった.永田龍馬さんは,比較的早く亡くなられたそうなので,ネット上には,佐世保南高校(第11期卒)の同窓会長として,東京支部を結成された功績が記録されている.

さて,中学3年生の時の数学の先生は,下山先生という方で,淡々とした授業で,大変好感の持てる先生だった.また,私は,予習も欠かさなかったので,よく理解でき成績も良かった.ただし,試験では,どこかミスをすることが多く,満点はあまり取れず,いつも95点前後であった.

ある試験(定期試験か実力試験)の時に,あまりにもみんなができないので,下山先生が,点数の分布を公表したことがあった.最高点は,90点台の私,2番目は,80点台の医師のお子さんの女子生徒,それ以下は,70点台が何人か,というものだった.ほとんどの生徒が,50点以下だったのではないだろうか.

私は,数学は,大して難しいものではないのに,何で,みんなできないんだろうと不思議に思ったが,中学3年生の数学は,一般の中学生のレベルからすると,確かに難しいのかもしれない.

なお,下に,修学旅行のときの写真を示す(図4-10と図4-11).宇佐八幡宮の横の川で,蛇が泳いでいるのを見て,神聖な気分になったことを覚えている.

 

図4-10 修学旅行(阿蘇)                図4-11 修学旅行(宇佐八幡宮)

さて,中学3年生も後半になると,そろそろ進路を考える時期になる.私は,兄と同じく,電子工作を趣味としていたため,何となく,佐世保高専に進学しようと思っていた.ところが,7月に大水害(「佐世保水害」として有名:1時間の降水量として125.1mmを記録)があったことから,自宅が流されて,親戚の家に避難した杉谷雅彦君が,日宇中学校から,夏休み明けの9月に,山澄中学校に転校してきた.杉谷君は,大変,人懐っこい人で,すぐに友人になった.そして,それがきっかけで,進路のことを話し合うようになった.

佐世保には,当時,有名進学校として,佐世保北高校と佐世保南高校があった.姉は,佐世保南高に進学し,そこを卒業した.また,数年上の優秀な従兄は,南高から,現役で九州大学の工学部の船舶工学科に現役で合格し,それがテレビでもリアルタイムで発表された(当時,九州大学の合格発表は,テレビでも行われていた.私も,従兄の発表は見ていて,名前がブラウン管に表示されたときは,深夜だったこともあり,隣の家から歓声が聞こえた).

さて,北高と南高では,北高の方が進学実績が良かったので,中学時代から大学進学を真剣に考えている中学生は,北高を選ぶことが多かった.ところが,佐世保市内には,学区があり,北部は北高,南部は南高と割り当てられ,山澄中学は南高の校区だった.しかしながら,ある程度の人数の範囲で,越境入学が許されていた.そこで,小学校の頃からの友人である竹田和夫君(御父上は,佐世保の有名な耳鼻咽喉科医院の院長)と杉谷君は,北高をめざしていた.このため,杉谷君は,私にも,北高に一緒に行こうと勧めてきた.

私は,高校進学後の展望は,全く持っていなかった(竹田君と杉谷君は,医学部志望だった)ので,最初は驚いたが,彼らの勧めもあって,佐世保高専から北高に志望変更した.公立高校の入試に関しては,どの中学も,進路指導が徹底していたので,北高の倍率は,1.1倍くらいで,大したことはなく,普通に受ければ合格するような試験だった.このため,中学から高校に行くときは,ほとんど,苦労らしい苦労はしなかった.ただし,これが,大学受験のときの大きなツケになってくる.

さて,電子工作の趣味は,ずっと続けていて,それが高じて,アマチュア無線の国家試験(電話級)を受けることになった(図4-12,図4-13,図4-14).九州では,電波監理局が置かれている熊本で試験が行われるので,中学を卒業して高校に入るまでの間の春休みに,叔父の車で,父母と兄弟で出かけた.高校に入ってからは,アマチュア無線の送受信機を作るために,クリスタルコンバーターなどを作成した.

図4-12 熊本城の前(兄と)                図4-13 熊本城の売店の前(母と)

図4-14 電話級免許証