第3章 小学生時代(1959年4月~1965年3月)

佐世保市立白南風(しらはえ)小学校に入学したのは,1959年(昭和34年)4月である.下に示すのは,小学校入学時の写真である.私は,最前列の右から10番目に写っている.入学式に参列した母親は,最後列の右から4番目に,和服を着て写っている.

担任の先生は,天羽(あまば)先生という方で,二列目の右から2番目に,立っている女の子(入学した子供の妹か)の左側に座って写っている.この写真を見ると,半分くらいの生徒の名前は,今でも憶えている.一番親しかったのは,斉藤文男君という生徒で,近所だったので,小学校に入学する前から,よく一緒に遊んでいた.

図3-1 小学校1年生の入学式のときの写真

 

小学校の頃は,1年に1回くらい,父の会社の慰安旅行(いわゆる社員旅行)で,家族で出かけていた.祖母と一緒に行ったこともあった(図3-2).これは,佐賀県の祐徳院稲荷に行った時の写真である.祖母は,伯父と一緒に私の自宅の隣に住んでいて,102歳まで生き,大変丈夫で長寿だった.図3-3も,慰安旅行に行った時の写真である.場所は,どこか覚えていないが,みんな笑っている,珍しい写真である.

図3-2 祐徳院稲荷(慰安旅行)         図3-3 慰安旅行(場所は不明)

 

さて,前にも書いたように,父も母も,兄弟姉妹が多く,しかも,父の兄弟姉妹は,ほとんど近所に住んでいたため,小さい頃から,一緒に遊んだり学校に通ったりしていた.図3-4は,学校に行く前の写真で,前列は,私と兄,後列は,左から,姉,従姉,近所の子供(魚屋のはるみちゃん)である.この写真は,その雰囲気から,私が初めて小学校に通うときの写真のように思われる.

このように,年が近い子供が,沢山近くに住んでいたため,学校の教科書は,ほとんど「お下がり」だった.今は,教科書は,無償化されていて,学校からただで貰えるようだが,昔は,自費で購入しなければならなかったので,2年上の隣の従姉が使った教科書を,1歳上の兄が使い,さらにそれを私が使う,ということがよくあった.

図3-5は,4年生くらいの時の写真で,前列は,左から,石橋達也君,私,後列は,左から,鶴田一雄君,斉藤文男君,平松君である.恐らく,学級委員のメンバーが,放課後に何か作業をやって,その後に,先生に写真を撮ってもらったものだと思う.

鶴田一雄君は,小学校1年生の頃から,習字が上手いのが有名で,高校は私とは別のところに行ったので,進路は知らなかったが,後で調べてみると,書道で有名な大東文化大学に進み,その後,中国書道史研究の権威となり,新潟大学の教授になったそうである.また,書家としても有名だった.ただし,残念ながら,60歳で急逝されたそうである.

図3-4 初登校の写真(?)(姉,兄,従姉などと一緒) 図3-5 同級生との写真(4年生くらい)

 

小学校の3年生の時に始め,その後の私の考え方に大きな影響を与えたものが,カブスカウト(小5まで)と,その後のボーイスカウト(小6~高2くらいまで)の活動である.兄が,友達の紹介で入団したので,私も,一緒に入団した.

制服で外出するのは,恥ずかしい面もあったが,夏のキャンプや,奉仕活動など,さまざまなことが体験できたので,後の人生には,大きなプラスだった.ボーイスカウトで鍛えられた精神は,いわゆる「奉仕の精神」で,いわゆるジェントルマンとして公に尽くす,という得難い考えは,色んなところで役に立ったと思う.

さて,図3-6は,小学校5年生の時の,佐世保第1団のカブスカウトの集合写真である.最前列の右端に,隊長である永田龍馬さん,最後列の右端に,後に永田隊長の奥様になられた古賀さん,その左に,内田さん,いずれも,班ごとに隊長の補助をするデンマザーと呼ばれる方々である.私は,最前列の左端,そして,最後列の左から2人目に母が写っている.

永田龍馬さんは,この2,3年前にカブスカウトを,佐世保で初めて作られたが,そのときは,まだ中央大学の学生さんだった.このため,大学の長期の休暇以外は,佐世保には不在で,別の方が指導されていたと思う.なお,永田さんは,月華荘という佐世保では有名な旅館の御曹司だった.

この月華荘には,東映の怪童,尾崎行雄というピッチャー(高校2年生で中退してプロ入りし,18歳で20勝9敗で新人王)が,オープン戦で佐世保に来た時に泊まっており,私も,そこでサインをもらったことがある.

さて,図3-7は,相浦の陸上自衛隊駐屯地の隊舎に泊まったときの写真である.このように,カブスカウトや,ボーイスカウトは,何かと自衛隊と接触が多かった.このため,自衛隊には,今でも親近感がある.

図3-6 カブスカウト佐世保第1団集合写真       図3-7 相浦の自衛隊駐屯地隊舎での合宿

 

小学校の時の思い出として記憶に残るのは,学校から集団で出かける修学旅行などの旅行ではないだろうか.この頃は,4年生の時は大村(飛行場などの見学),5年生の時は長崎(平和記念公園やグラバー邸など),6年生のときは福岡(大宰府や筥崎宮など1泊)となっていた.

ところが,昭和37年に,平戸城が再建されたこともあり,4年生のときの旅行は,大村ではなく,平戸になった.平戸では,平戸城や,松浦藩の資料が展示してある史料館などを見学した.平戸松浦藩の第9代藩主の娘は,公家の中山忠能に嫁ぎ,その娘は,孝明天皇に嫁いで明治天皇を生んだため,それに関する史料などもあったが,当時は,その価値などが,わかるはずもなかった.図3-8は,小学校5年生の時の,長崎に行った時の集合写真である.平和記念公園の有名な平和記念像の前で撮った写真である.担任の先生(桟先生)は,右端に立って写っておられる.

図3-8 小学校5年生のときの長崎旅行(平和祈念公園の平和祈念像の前にて)

 

小学校6年生の時には,きっかけは思い出せないが,コーラス部に入った.合唱コンクールに出たが,あまりいい成績ではなかったように思う.でも,いい体験だった.なお,指導の先生は,中学校に行ってから,2度も担任をしていただいた,土肥台男先生の奥様だった.この先生は,生徒のお尻の下の太腿の部分を,1mくらいの長い竹の定規で叩くという体罰で有名だった.当時は,体罰は珍しくなく,竹の根で作られたムチをいつも持っている先生もいた.そもそも,教鞭を執るの教鞭は,ムチのことである.でも,その先生の名前は今でも忘れない.

この他に,小学校時代に始めた趣味として,後々まで影響があったのは,電子工作だった.小学校5年生の頃に,「子供の科学」という雑誌を読み,一定の時間間隔で,ポツポツという雨だれのような音がするものを製作した.それから,色んな電子工作をするのが趣味になり,それ以来,今でもそれが趣味になっている.

私の体験から言えば,小学校の5年生(10歳くらい)が,将来の進路への大まかな方向を決める学年ではないかと思う.