第15章 筑波大学物理工学系教授(2001年11月~2018年3月):教育・社会貢献編

15-1. 教授としての責任および管理職

2001年11月16日付で教授に昇進した.教授になってすぐに変化したことは,教授懇談会(学系運営会議)に2週間に1回くらいのペースで出席するようになったことである.この教授懇談会というのは,事実上の「教授会」で,学系の中のことはすべてこの会で決まっていた.特に,人事関係のことは,投票で決まるため,意見が異なる場合には,特定の教授から,どちらに投票すべきかの強い依頼(脅迫)があったりした.助教授のときまでは,学系の中で,物事がどのように決まるか分からなかったが,これでようやく大学の中の仕組みが分かった.民主的というよりも,教授による専制制度だった.

さて,教授になって,すぐに担当したのは,応用物理学主専攻の専攻主任である.この時に担当した学生さんが,小山高専と長岡高専からそれぞれ編入してきて,後に,研究室に配属されて博士号を取得した半田晋也君と大竹陽介君である.いずれも,現在でもMRIの業界で活躍している.また,私が専攻主任になって新たに始めたことは,卒研中間発表会である.これは,学園祭の翌日が全学休講であることを利用して始めたことで,当時は,応物主専攻だけだったが,今や,応用理工学類のすべての専攻で行われ,好評を博している.でも当初は,他専攻の教授から,好ましくない意見が出たのも事実である.余計な仕事を増やすな,ということだったようだ.このように,良かれと思っても必ず反対が出るのが,組織というものである.

また,教授として,学類と関係大学院の就職委員を何度か行い,特に,大学院の再編があった後には,学類だけでなく,数理物質科学研究科の就職委員も兼任した.就職委員は,多くの教授は,あまり望まない役職だったが,私は,率先して何度か担当した.これにより,社会の動きが分かることもあり,大変勉強になった.特に,2011年3月の東日本大震災のときには,就職戦線は大混乱であったが,これまでの経験を活かして,その影響を最小にすることができたと思う.

2008年4月1日から2010年3月31日までは,第2代の応用理工学類長を拝命した.その初年度の4月に入学してきた学生さんは,応用理工学類の第2期生で,大変印象に残っており,今でも交流のある学生さんもおられる.図15-1は,その第2期生が3年生の時の工場見学のときの写真である.この時は,1日目に新日鉄君津製鉄所,2日目には,東京湾横断道路を通って対岸へ行き,全日空の羽田整備場を見学した,とても思い出深いイベントだった.

図15-1 応用理工2期生の3年生の工場見学旅行.全日空羽田整備場.

 

私が学類長になったのは,応用理工学類が名称変更して,カリキュラムもかなり変更されて2年目だったので,新しいカリキュラムなどをうまく運用することが中心的な仕事で,新しいことは,あまりできなかった.というよりもしなかった.でも,過去の色々な「判断ミス」から問題となっていたことも多く,その点だけは何とかしようと思っていた.

学類(長)にとって最大の問題は,「学業不振」な学生の問題である(優秀な学生は,何もしなくても伸びるので何も心配する必要はない).学業不振の原因は,カルトの問題,部活のトラブル,経済的な問題などさまざまあり,それぞれに個別に対応してきたが,その中に構造的な問題があることが分かってきた.それは,AO(admission office)入試,筑波大ではAC(admission center)入試と言われるものである.

AC入試は自己推薦入試とも言われ,当初は,学力試験をしてはいけないという文部省の縛りがあり,このため,入学後に必修単位が取得できず進級できないという問題が,複数の学類,特に理系の学類で生じていた.確かに,中には,一般入試で入学してきた学生さんよりも優秀で,特別な能力を発揮していた学生さんもいたが,それは少数例で,このような一部の学生を採るために,多くの(50%程度)学生さんを,結果的に中退させてしまうことは何としても避けるべきと思った.そこで応用理工学類では,AC入試制度を止めるということを決断し,教員会議に諮って決定した.

これを聞きつけた日本経済新聞の記者が,AO入試の老舗である慶応湘南藤沢キャンパス(KFC)と比較する目的で,私のところに取材に来られた.取材に来られる時点で,既に,ストーリーは出来ていたと思うが,結局,「我々に見る目がなかった」というコメントを取られ,記事にされてしまった(図15-2).このコメントは,1時間くらいの対面の取材の後,おおよその記事を書き上げ,そこで必要なコメントが欲しくて,後の電話取材で取られたものである.取材はとっくに終わっているのに,なぜ,執拗に何度も電話してくるのか不思議だったが,記事が出てからその意図に気づいた.でも,AC入試を止めたことは,多数の学生さんのためになったと思う.しかしながら,結果的には,特定の新聞社の評判や記者の功名心のために利用された形になり,このようなことは注意すべきと強く感じた.

図15-2 2012年10月22日の日経新聞(1)                  図15-3 2012年10月22日の日経新聞(2)

図15-4 2012年10月22日の日経新聞(3)

 

15-2. 教科書の出版

研究室のメンバーが増えてきたことと,色々な依頼で,MRIに関する教育講演などを行う機会も増えてきたので,それらを教科書という形でまとめることを考えた.実際にまとめることになったのは,長男が保育園を卒業して小学校に通うようになったことにより,朝,長男を送っていく役目がなくなり,大学に行くまでの間のしばらくの時間が自由に使えるようになったからである.このようにして,その朝の時間を使って教科書を書き始めた(1994年4月開始).

当初は,なかなかペースは上がらなかったが,2000年を過ぎて大学院生が増え,学生間で切磋琢磨しながら日々の研究が進んでいく中で,個別の学生を教育するよりも,全員の学生を効果的に教育できる教科書の執筆を優先させた.2003年中にほぼ完成させ,2004年の初頭に共立出版社から「NMRイメージング」を出版することができた(図15-5).この本は,2刷りまで出版されたが,現在は絶版となっている.なお,この本に関しては,当時の東大薬学部の荒田洋二先生から,身に余る書評をいただいた.

また,同時期に,(株)エムアールテクノロジー社の活動とも関係して,さまざまな小型MRI装置が発表されたので,それらの成果をまとめた「コンパクトMRI」を編集して,同じく共立出版から出版した.こちらは,その色から「青本」と呼ばれている.

何がきっかけかは覚えていないが,インナービジョンという業界誌から,毎月,MRIに関する記事を書くようにとの依頼があり,「めざせMRIの達人」というタイトルの連載を,2008年1月から2009年12月までの24回と,1年の休載期間を経て,2011年1月から2012年12月までの24回にわたって行った.前半の24回は,「NMRイメージング」で説明しきれなかった進んだ内容のトピックに関する記事であり,compressed sensingなどのup-to-dateな話題も掲載した.後半の24回は,Lauterburの論文に始まるMRIにおける歴史的な代表論文を取り上げ解説した.

以上の合計48回の連載をまとめた単行本が,図15-7に示す「めざせMRIの達人」という本である.この本は,今でも,一部の熱烈なファンから支持されている.

図15-5 NMRイメージング        図15-6 コンパクトMRI         図15-7 MRIの達人

 

15-3. ICMRM2005:宇都宮

MRIの臨床医学への応用だけではなく,サイエンス一般への応用を目標としていた私としては,日本磁気共鳴医学会や,その国際版であるSMRM(Society of Magnetic Resonance in Medicine)や,その後継のISMRM(International Society of Magnetic Resonance in Medicine)は,発表する学会としてはやや不満があった.そこで,一時は,日本流体力学会や米国物理学会でも発表したが,なかなか決定的な学会はなかった.そのような中で,ICMRM(International Conference on Magnetic Resonance Microscopy)という国際会議の第1回目が1991年にHeidelbergで開催され,その後隔年で開催されていることを知った.

ICMRMに私が初めて参加したのは,1995年にドイツのWürzburgで行われた第3回目からである.この年の会議は,「X線発見100年記念」と謳われており,その点でも興味があった.この会議では,三次元泡構造の発表を行った.また,この会議で,アーヘン工科大学のBlümich氏と友人になった.また,近くのローテンベルグなども訪問し,ドイツの中世から近世の文化に触れることができた.

この国際会議を主催している,Spatially Resolved Magnetic ResonanceというAmpere DivisionのGeneral SecretaryのAxel Haaseに,1998年にベルリンで行われたISMAR(International Society for Magnetic Resonance)の時に会い,ICMRMの将来について質問した.Haaseは,ICMRMが,その前年(1997年)に,米国のアルバカーキに移ったのは例外的な措置であり,本拠は欧州だが,いずれは世界全体に広げたいという意向だった.

そこで,2001年に,ICMRMが英国のNottinghamで開催されたときに,京都で行うことを提案したらCommitteeで認められた.なお,開催地を京都としたのは,元々,岡崎の生理研におられた瀬尾先生が,生理研の亘先生が定年になられた後に,京都府立医大に移られたからであった.でも,その後,瀬尾先生は独協医大に移られたため,日光・宇都宮に開催地を移すということを,Axel Haaseに認めてもらった.

このようにして,ICMRM2005は,瀬尾先生と私が共同大会長として,私が,主にプログラムの受付と作成,ウェブサイトの作成,筑波ツアーの開催などを担当し,瀬尾先生が,現地の開催一切を担当された.このようにして,何とか,国際的にも全く問題のない国際会議を共催することができた.図15-8は,宇都宮から筑波大の私の研究室に,エクスカーションで来てもらったときの集合写真である.なお,この帰りに筑波山もバスで訪れた.

図15-8 ICMRMにおける筑波大へのエクスカーションの集合写真

 

15-4. 日本磁気共鳴医学会理事および大会長

日本磁気共鳴医学会(JSMRM)は,その前身であるNMR医学研究会の第2回目(1982年)から参加しており,1993年には理事に選出され,広報委員会担当理事を任された.何をやるべきか,よく分からなかったが,まずは広報委員会を立ち上げ,その後,学会のウェブサイトを立ち上げた.1995年頃のことだったと思う.

また,1996年の湯浅龍彦先生が大会長の時(大磯)には,Paul Lauterbur氏が来られ,大会会場からinternet経由で,イリノイ大学にあるMRIを操作したいと仰るので,その設営を任された.これに関して,当時の大学院生の拝師智之君に協力してもらって何とか責任を果たすことができた.なお,internetに接続するための国内のエントリポイントがなかったので,Lauterbur氏個人のPCに,私個人のso-netのアカウントとパスワードをセットして,それで接続してもらったことをよく覚えている.

その後,2000年4月~2004年3月までは会計担当理事,2006年4月~2010年3月までは庶務担当理事および副会長,2012年7月~2016年6月までは副会長と会長を担当した.その間,事務局の移転(五反田から浜松町)や,一般社団法人への転換などに関係した.

そして,2010年には第38回大会長となり,つくば国際会議場で開催した.大会の事務的な準備は,学会事務局長の鈴木さんと連絡を取りながら,ほとんど秘書の粳田さんにやっていただいた(図15-9).また,臨床系のプログラム作成は,新津守先生と筑波大学臨床医学系の先生方にやっていただいた.図15-10は,その大会の時に,名誉会員になられた平敷敦子先生(左:第33回大会長)と渡部徳子先生(第23回大会長,第8代会長)との記念写真である.この大会では,大会会場内の楠の枝を,ポータブルMRIで撮像するデモンストレーション(木村君と下家君)も行った.

図15-9 第38回日本磁気共鳴医学会大会      図15-10 名誉会員(平敷先生と渡部先生)の方々と

 

15-5. メディア出演など

MRIそのものが,かなりメディア受けするトピックであるが,病院はハードルが高いこともあり,また,色々なコメントが取りやすいためか,研究室には,年に1~2回くらいの頻度でメディア(特にテレビ)の取材が来た.一番注目された取材は,日本テレビの「世界一受けたい授業」への出演だった(2009年4月25日収録,5月23日放映)(図15-11).

このときは,数週間以上前から,台本を元に何回も打ち合わせを行い,さらに,鯛焼き,蟹などをあらかじめ研究室で撮像しておき,磁石(0.2 T)とMRIコンソールを日本テレビのスタジオ(汐留)に運んで,撮像実験の真似事を行った(図15-12).この時は,当時修士2年生の中山忠明君と小川恭平君が手伝ってくれた.

図15-11 世界一受けたい授業への出演          図15-12 スタジオでの撮像風景(左は中山忠明君)

 

リハーサルは,タレントさんの代わりに,制作会社のスタッフ(ADなど)が座席に座って,台本にしたがって一通りさらっと行い,その後,タレントさんが座って本番が行われた.本番では,校長の堺正章氏が,初対面にもかかわらず,いきなり馴れ馴れしく話しかけてきたので,少し驚いたが,これは単なる設定だと思いなおし,無難に対応した.

台本に関しては,私と校長の堺さん,教頭のクリームシチューの上田氏は承知していたようだったが,他の芸人さんは,ほぼ台本なしで,その時のノリだけでしゃべっていた(図15-13,15-14).また,芸人さんたちのツッコミに対して,私が,アドリブで答えたようなところは,放送では全く使われなかった.なお,本番は,放送時間の2倍くらいの時間(30~40分)行われ,その後,都合よく編集されたようだった.そして,言い間違った部分や,補足したいセリフは,後日,赤坂のスタジオに呼び出され,何回か音声録音をさせられた.それぞれ10回くらいしゃべって,何とかOKが出た.

収録前から,出演料は立場に関係なく一律25万円と言われていたが,放送が終了してから1年以上経っても,制作会社からは,ずっと支払われていなかった.ところが,ある脳科学者の脱税事件(というよりも所得無申告事件:2009年11月発覚)に関係して,その制作会社も捜査されたためか,その後,しばらくしてようやく支払われた.この出演料で,記念に初代のiPadを購入した.

図15-13 世界一受けたい授業のスタート風景          図15-14 生徒の芸人さんと小型MRI

 

15-6. OB・OG会(研究室同窓会)

研究室の卒業生が増えてきたので,最初は数年に1回,その後は2年に1回のペースで同窓会が開かれるようになった.第1回目は,2002年3月3日に茗荷谷の茗渓会館で開かれた.その後,2005年12月12日,2008年3月4日,2010年3月1日,2012年3月3日,2014年3月16日,2016年3月6日,2018年3月4日に開催された.場所は,2008年を除き,筑波ハムで行われた.

2020年3月15日には東京で開催される予定だったが,コロナのために中止になり,2023年7月に次回の同窓会が計画されている.

図15-15 2018年3月4日の同窓会のときの集合写真(40名)

 

15-7. 最終講義と定年退職

2018年3月5日に最終講義を行った.1~2カ月くらいかけてパワポを準備し,60分くらいで発表した.筑波大学に来るまでの約33年間と,筑波大に来てからの32年3ヶ月にわたる研究や教育などについて話した.もっと色々と話したいこともあったが,一応,区切りとなる話はできたと思う.図15-16は,最終講義のときの記念写真である.図15-17は,大学における最終日である3月30日,大学会館で行われた永年勤続表彰式の帰りに,研究室がある総合研究棟Bを写した写真である.図15-18には定年退職の辞令を示す.

30年を超える日々を筑波大学で過ごし,一生の大半を過ごしたので,思い出は山ほどあるが,これを記録することによって,いい記憶としたい.

図15-16 最終講義のときの集合写真

図15-17 大学における最終日(2018年3月30日)の写真

図15-18 定年退職の辞令