第11章 東芝総合研究所(1981年4月~1985年12月)

11-1. 社会人生活のスタート

1981年4月1日に,目出度く(?),東京芝浦電気(株)に入社することができた.当時から,東芝と呼ばれていたが,(株)東芝に正式に社名変更するのは1984年4月1日のことである.これを書いている2023年の時点で,東芝は,ここ10年くらい「存続の危機」にあるが,この頃はまだ,みかけ上は順風満帆であった.ただし,ライバルの日立製作所に比べると,かなりユルイ会社だった.というよりも,居心地のいい会社だった.これは,まだ,高度成長期の余韻があった頃だったことになどによるものだったのだろう.このユルさが,その後の危機になったことは間違いないと思う.

さて,入社式は,高専,大卒,大学院卒の新入社員約800名を集めて,東芝の柳町工場の体育館で行われた.また,博士卒が,30名くらいいただろうか.その中に,駒場の同級生の片桐茂夫君と鷲津正夫君がいた.片桐君とは,全体研修のときにいつも一緒だった.

入社の挨拶は,前年社長になられた佐波正一氏ではなく,会長の岩田弌夫氏がやられた.この方は,「選択と集中」という言葉で,多岐にわたりがちな東芝のビジネスを,利益の高い分野に絞ろうと努力された方である.このように,東芝は,当時から,一歩間違えると崩壊の可能性があったと言えるだろう.

入社してから,3週間くらいは座学と工場見学などがあり,4月の終わり頃に,各事業部への配属が言い渡された.すなわち,入社式を行った体育館に再び全員を集め,1人1人,名前と配属先(本社部署や事業部)が言い渡された.大学院の博士卒は全員,配属が確定したいわゆる予約採用で,修士卒も半分くらいが予約採用だったが,学士卒,高専卒の社員は,予約採用はほとんどなく,このときの配属決定が,運命を決するものだった.研修の時の同じチューターグループの人で,自分が希望していた部署とは全く違ったところに配属されて,茫然としている人もいた.今でいう「配属ガチャ」である.最近は,これで会社を辞める人がいるらしい.図11-1に,全体研修の頃の写真を示す.研修の頃は,このような服装だった.後ろは,東芝のどこかの事業所だと思う.

図11-1 入社研修の頃の写真.入社面接にも使用したリクルートスーツだった.

 

配属で,各事業部に配属された新入社員は,早速,各工場などに移動して,そこで,各事業部の事情に合わせた研修が行われた.いっぽう,本社や総合研究所などでは,所管の工場がないこともあり,お盆前までは販売実習が中心だった.販売実習と言っても,主に,夏に需要が集中するエアコンの販売要員として,働かされていただけである.なお,本格的な夏の商戦までは,まだ時間があったので,本社関係の新入社員は,小向の半導体工場で,半導体のテストなどの3交代勤務を3週間くらい体験した.この研修でよく分かったのは,工場の現場は,当時から,期間を決めて採用されている非正規社員の人たちが中心となって運営しているということだった.非正規社員の問題は,最近始まった問題ではない.

以上のように,5月を過ごして,6月の初め頃から,全国の電気店に販売実習として散っていった.私は,一応,郷里での販売実習を希望していたので,佐世保のベスト電器で実習をすることになった.このため,久しぶりに実家に長期(2カ月くらい)滞在することになった.確かに,郷里の方が,滞在費の負担などの点で,会社としてもメリットはあったのだろうと思う.もちろん,全く見ず知らずの場所で販売実習をした人もいた.

販売実習中は,特に思い出はないが,当時の量販店の仕組みを感じることができた.また,高校の時の比嘉先生が,たまたま店に来られ,「こんなところで何をやっているんだ」みたいなことを言われた.進学先は,承知されていたと思うが,10年ぶりの再会だったので,単純に疑問に思われたのだろう.一応,説明したので疑問は解けたと思う.

このような販売実習がお盆の頃まであって,ようやく,本格的な勤務に就くことになった.なお,2015年に,私の教え子で,博士課程を修了して東芝に入社し,私と全く同じ部署(総合研究所から研究開発センターに名称は変わっていたが)に配属された玉田大輝君の場合は,このような実習はなかったらしい.ようやく,その不合理さ(理不尽さ)に,気が付いたということなのだろう.博士号を取得したような(既に批判的精神が身に着いている)人間に,今更,研修を通して会社に対する忠誠心のようなものを植え付けること自体,ありえないことである.

 

11-2. 東大物性研における1400ガウスのプロトタイプ機の開発

1981年のお盆明けから,いよいよ研究が始まった.第10章にも書いたように,入社前の3月に,物性研の安岡研に通って,東芝でMRIの研究を担当していた佐藤幸三さん(物性研出身.当時は,医用機器事業部所属.後に東芝総研に配置換え)に,10編くらいのMRIの基本的な文献のコピーを貰っていたので,研修中,少しは目を通していた.ところが,慣れない分野だったこともあり,文献を見てもあまりぴんとこなかった.でも,物性研に再び通い始めて,佐藤さんとディスカッションを始め,また,具体的な目標を目の前にすると,だんだんやるべきことが分かってきた.

当面の目標は,図11-2に示す小型のMRI装置で,MRIの撮像技術を確立し,それを,人体用のシステムに活かすことである.この装置には,静磁場強度1,400ガウス(0.14 T)の空芯磁石が使用してあり,グラジエントコイルやRFコイルは,佐藤さんが作ったものがあった.私の担当は,主にエレクトロニクスの部分で,その中でも,デジタルの部分だった.それは,佐藤さん自身,物性研における修士課程と博士課程において,ずっとNMRをやってきて,物理実験全般はもちろん,NMRにも造詣が深かったが,デジタル回路には,あまり経験がなく,MRIの研究を行う上においては,その部分がネックになっていたからである.また,佐藤さんも,東大の物理学科出身だったので,色々な話がよく弾んだ.というよりも,色々と物理の深い話を教えていただいた.

以上のようなこともあり,私の最初の仕事は,選択励起パルスの波形を発生するためのROM(WAVETEKの任意波形発生器に挿入)を作成することだった.そして,次の大きな仕事は,選択励起パルスを含むMRIのパルスシーケンスを任意に制御できる,パルスプログラマを開発することだった.

パルスプログラマは,当初,東芝が売り出していたマイコンの自作キットを使い,それが発生するタイミングを利用することが以前から考えられていた.ところが,そのキットの完成度が低かったこともあり,当時,ベストセラーとなっていたNECの8ビットパソコン(PC-8001)を使うことを提案した(図11-3).このように,PC-8001には,専用のディスプレイ,プリンタ,フロッピーディスクドライブ,外部インターフェースなどもあり,基本ソフトとしてBASICが動き,大変使いやすかった.当時,海外のグループでは,MRIの研究には,主にミニコンを使っていたが,当時,パソコンを使ったのは,我々のグループが,一番早かったかも知れない.

図11-2 1,400ガウスの空芯電磁石MRI        図11-3 PC-8001を用いたパルスプログラマ

 

ところが,図11-3に示すパソコンを用いて,MRIのパルスシーケンスを出力するマシン語プログラムを作成して,パルスシーケンスを発生させたところ,パルス間隔に,ジッタと呼ばれる時間的不安定性が観測された.ミニコンを用いて,NMRのパルスシーケンスを発生させる方法は有名だったので,パソコンでもうまくいくと思っていたが,ジッタが発生したのには,少なくとも二つの原因があった.それは,DMA(direct memory access)という,CPUを介さない割り込みによるメモリ間の転送(主メモリからフレームメモリへの転送など)と,主記憶装置に使われているDRAM(dynamic random access memory)のメモリのリフレッシュが,CPUのプログラムとは関係なく,ハードウェア割り込みによって起こっていたからである.

そこで,PC-8001のCPU(Z80A)を,外部に独立させ,メモリはリフレッシュの必要ないSRAM(static random access memory)を使って動作させることにした.このため,全くの自作で,そのマイコンシステムを製作し,そのメインメモリに,PC-8001から,命令コードをダウンロードさせて動作させる仕組みとした(図11-4).これによって,上記の問題点を解決し,自由にパルスシーケンスが発生できるようにした.図11-5は,この装置を用いて,ファントムやレモンの断層を,プロジェクション法で撮像した結果を報告した日本物理学会の予稿である.この発表は,私の東芝における最初の学会発表になったばかりでなく,私のMRIにおける最初の学会発表となった.

学生の時にいた本郷のアパートは1982年の3月まで住んでいて,その年の秋に結婚するために,多摩市の多摩ニュータウンの日本住宅公団の賃貸アパート(2DK)に引っ越した.

図11-4 PC-8001の外部に独立させたZ80を用いたパルスプログラマ

図11-5 1982年春の物理学会(横浜国立大学)における発表予稿

 

11-3. 東芝中央病院での臨床機の開発

1981年の暮れに,医用機器事業部の那須工場に,西ドイツのブルーカー社製の4コイル型の人体用MRI磁石が導入され,人体用MRI開発のプロジェクトが発足した.私と佐藤さんは那須工場に1泊2日で出張し,その発足式に出席した.総合研究所と医用機器事業部は,会社の中では独立した組織なので,本来ならば,全体をマネジメントする上部の組織があっても不思議ではないのだが,私の直接の上司にあたる井上多門さんは,総合研究所の中では孤立していたため,そのようなことにはならなかった.いわゆる,個人プレーである.

このように,これまで,物性研と東芝との共同研究を進めてきた総研と,実際上,研究資金と実働部隊を抱える医用機器事業部,そして,それぞれに所属する私と佐藤幸三さんという複雑な関係であった.また,佐藤幸三さんは,総研にはポストがなかったので,医用機器事業部に中途採用されていたが,元々,総研への採用を希望していたので,事情は複雑だった.私自身に関しては,仕事上の直接の上司は佐藤さん,組織的な上司は井上さんということだったが,それに関係なく,開発の仕事に集中していた.

色々な曲折はあったが,1982年の4月に,那須工場に導入されたブルーカーの磁石は,東京の大井町の東芝中央病院に導入することは決まっていた.医用機器事業部は,那須工場で最初のMR画像を出したかったようだが,小型MRIで開発した撮像技術は,佐藤さんと私が持っていて,医用機器事業部には一部しか伝わっていなかったので,那須工場だけで画像を出すのは困難だった.

このように,社内のポリティカルな事情はあったが,現場の人間は,それには関係なく,その場その場で,最良の結果が得られるように頑張っていた.というよりも,使命感を持って仕事に当たっていた.図11-6に,現場における開発のメンバーを示す.左から,私,五島さん(東芝中央病院所属の放射線技師さん),鈴木宏和さん(那須:阪大博士課程中退),畑中さん(那須:北大博士修了),佐藤昌孝さん(東芝メディカル:筑波大博士修了)である.佐藤幸三さんは,おそらく,この写真を写しているので写真の中にはいないのだと思う.他に,常駐メンバーとしては,東芝メディカルの武藤さんがいて,畑中さんは常駐ではなく,那須から出張で来ていた.

最初の画像が出たのは,5月の連休過ぎだったと思う.ポイントになった技術の一つは,物性研において開発した,プロジェクションの角度を変化させたときのエコー信号の位相補正技術である.これは,物性研にいたときに観測した,撮像用のパルス磁場勾配を印加したときに,信号の位相が回る現象から開発されたものである.今の言葉で言えばB0シフトである.この位相回転は,プロジェクションの角度と共に変化していたため,物性研では,最初は,手動のフェーズシフターで角度毎に補正していたが,人体の計測では自動補正する必要があった.そこで,佐藤さんと議論する内に,エコー強度(ノルム)のピークを見つけ,その時刻における実数部と虚数部の信号から位相角を計算し,それを用いて信号の位相補正を行う方法を見出した.後日,日立中研にいて筑波大に移った松井茂さんに,その話をしたら,日立では,角度毎の位相を実験で記録し,それで位相補正をしていたそうなので,この話をしたときには驚いておられた.この手法は,私が筑波大に移ってから数年後に,Journal of Mgnetic Resonanceに論文が掲載されたので,特許を申請していれば特許化されていたかもしれない.

位相補正の手法を那須に伝えて,画像再構成プログラムに実装してもらい,頭部用RFコイルのSNRの改善などを行った結果,図11-7に示すような画像を取得することができた.これは私の頭部画像だが,最初の頭部の画像は,武藤さんの画像だったと思う.初めての画像が出たときには,東芝中央病院や医用機器事業部の中では,大騒ぎになったようである.それは,撮像実験を,現場の判断だけで行ったことや,それに,那須工場の上司の判断の関与がなかったことによるものではないかと思われる.いずれにしても,東芝中央病院における開発現場は,佐藤幸三さんが中心となって進んでいたことは間違いない.

図11-6 東芝中央病院における開発グループ          図11-7 5月29に撮像された私の初期の画像

 

このような画像が撮れてくると,2つのことが浮上した.一つは新聞発表で,もう一つは医用機器としての治験申請である.

新聞発表は,5月の終わり頃から6月にかけて行われたが,その直前に,どこからか情報が漏れたのか,旭化成が英国のアバディーン大学と共同でMRIの実用化を進めていて近いうちに国内で販売する,という記事が新聞に大々的に発表された.これに関しては,社内で犯人探しが行われ,医用機器事業部のM部長が怪しいのではということになった.

治験申請のための臨床試験は,当時,東京大学病院放射線科の医局長で,1週間に1回東芝中央病院に来られていた荒木力先生が中心で行われた.荒木先生は,この時撮像された何例かを,その年の7月に行われた第2回NMR医学研究会で発表され,その座長をやられていた九州大学放射線科の松浦啓一先生から,国内初の臨床例の発表であると激賞された.

その後,全身用のRFコイルの開発などに集中し,8月には,図11-8に示すような画像を取得することができた.この画像は,当時としては世界的にも画期的な画像で,その年のRSNAでも展示され,翌年発売されたMRT-15Aのパンフレット(図11-9)にも掲載された.

図11-8 ボディのサジタル画像(1982年8月)         図11-9 製品のパンフレットの表紙

 

11-4. Unixワークステーションを用いたMRIシステムの開発

東芝中央病院には,1982年の4月から8月頃までほぼ常駐していたが,一応,開発は一段落したので,物性研に戻って,その後の研究テーマに集中することにした.

製品として重要だったのは,マルチスライスだった.マルチスライスの原理そのものは簡単だったが,ラーモア周波数から,パルスシーケンスに同期して,周波数シフトを正確に行う方式を見つけることに工夫を必要とした.後で分かったことだが,海外のメーカーでは高価な周波数シンセサイザを使っていた.

この点でも,得意のデジタル技術が役に立った.即ち,図11-10に示すように,ROMを用いてsine波とcosine波を発生させ,その読出しクロック周波数をVCOで発生し,VCOへの入力をDAコンバータで制御し,さらにROMのアドレスカウンタをパルサーに同期してリセットすることにより,マルチスライスを可能とした.これは,MRI装置の大幅なコストダウンにつながったばかりでなく,早期の製品化(マルチスライスは製品化には必須)にも貢献したと考えている.

この年の10月31日に,東京で結婚式を挙げた.その前日(10月30日)に,九州から上京した親戚の宿を訪れたが,西武ライオンズが24年ぶりに日本一になる,中日との日本シリーズ最終戦(9-4で西武勝利)が行われていた.その意味で,歴史的な日であった.

図11-10 マルチスライスのための周波数合成回路.

 

マルチスライスの回路作成と基礎実験は,数カ月で終わったので,その後の研究を加速すべく,データ収集と画像再構成を効率的にするシステムの構築を始めた.というのは,以前は,物性研で取得されたプロジェクションデータは,紙テープに落とし,それを井上多門さんが,芙蓉情報センターという社外の計算センターに持って行って,大型計算機に読み込ませ,井上さんのプログラムで画像再構成していたからである.このため,実験が終わってから画像が得られるまで,最低でも2~3日はかかっていた.一方,東芝中央病院では,撮像したら,ほぼ直後に画像が出ていた.よって,画像がすぐ得られるシステムの構築は最優先事項だった.

そこで,まず,画像再構成計算ができるコンピュータを探した.第一に候補になったのは,HPの計測用コンピュータで,実験装置とのGP-IB(HP-IB)インターフェースを備えていて,CPUも,モトローラの16bit CPUのMC68000を採用していた.ところが,1982年の年末頃に,「インターフェース」という雑誌をみていたら,東芝からGP-IBインタフェースを備えたUnixワークステーションが発売されるというニュースが掲載されていた.これは,まさに,探しているコンピュータにぴったりのものだった.そこで,早速手配してもらって,システムの構築を始めた.なお,UX-300が導入できたのは,1983年の4月頃だった.普通は,予算申請から発注,納入まで,1年かかっても不思議ではないが,東芝中央病院で挙げた実績があったので,年度末にもかかわらず,優先的に入れてくれたのではないかと思う.

UX-300の導入と並行して,画像ディスプレイ用のGP-IB接続のフレームメモリなどを自作し,データ収集用のメモリ(10bit,2CH)とのインターフェースプログラムなども作成し,図11-11および図11-12に示すようなシステムを完成させた.これにより,その後の研究開発が,飛躍的に加速した.

なお,1983年12月に,南新宿の中央鉄道病院で長女が生まれた.1970年に,初めて上京したときにこの病院の傍を通ったので,運命的なものを感じた.

図11-11 Unixミニコンで構築したMRIシステム   図11-12 Unixミニコンで構築したMRIシステム

 

11-5. 流れのイメージングと化学シフトイメージングの基礎実験

本邦初の人体用MRIを開発したという割には,論文や学会発表という成果には恵まれなかった.ただし,これは,総合研究所ばかりでなく医用機器事業部も挙げてのプロジェクトだったので,その点では仕方がないものだった.

ということもあり,MRIの将来のテーマにもなり,かつ,研究者としての成果としても評価される,論文を意識した研究を始めた.一つは,佐藤さんが中心となったケミカルシフトイメージング,私が中心となった流れのイメージングである.

佐藤さんのケミカルシフトイメージングの論文は,K. Satoh, K. Kose, T. Inouye, H. Yasuoka. Chemical shift imaging by spin-echo modified Fourier method. Journal of Applied Physics 57, 2174 (1985)であり,私が中心となった論文は,K. Kose, K. Satoh, T. Inouye, H. Yasuoka, NMR Flow Imaging. Phys Soc Jpn 54, 81-92 (1985)である.また,いずれも,1984年のSMRM(米国磁気共鳴医学会)に投稿し,採択された.これらの論文は,図11-11に示すシステムによって実現できたものである.

 

11-6. 総合研究所への移転と初の海外出張

人体用MRIが製品化(1983年)され,東芝総研と東大物性研の共同研究の当初の目的が達成されたので,共同研究は終了し,佐藤さんと私は装置と共に,東芝総研に移ることになった.

実験装置を置く場所は,簡単には確保できなかったために,工場のような広い建屋の一画に,シールドルーム(600万円くらい)を建てて,その中に,すべての実験装置を物性研から移設した.また,磁石がなかったので,井上さんに,東芝総研の中を探していただいて,材料系の研究室に置いてあったJEOLの高分解能NMR用の鉄芯電磁石を移設してもらった.この磁石は,その後,筑波大に移設され,さらに磁性関係の研究室(喜多・柳原研)に移設された.このようにして,物性研にあった実験装置を何とか修復し,実験を始めることができた(図11-13).

図11-13 東芝総研におけるシールドルーム内の実験装置

 

さて,私が所属していた,井上多門さんが主宰されていた特別研究室は,元々,総研の中の情報研という100人くらいの研究所から,井上さんが独立して作られた研究室で,博士卒のメンバーだけが集まっていた.というのは,修士卒の人が来ても,社員教育らしいことができなかったことと,独立するときに,上層部との約束で,毎年,1名の新規配属を認められていたからである.このため,当時所属の遠藤さん,岡崎さん,佐藤さん,私のいずれもが博士卒で,その後,小向の別の事業所から移った末広さん(元東大助手,後に筑波大教授)も博士卒という,非常に変わった組織だった.

ところが,井上さんは,総研ではしばしばあるケースだが,筑波大学に転職されることになった.確か,9月15日付くらい(日程詳細不明)で転職されたと思う.そこで,特別研究室の各メンバーは,総研の中の関係の深い研究所に移ることになった.このような事情で,私と佐藤さんは,一番関係の深い電子研究所のME(Medical Electronics)グループというところに移った.なお,井上さんから聞いた話では,医用機器事業部から総合研究所に対して出されていたMRIに関する研究委託の評価は,金額に換算すると,前代未聞の数十億円の価値があったということだった.

さて,その年の8月には,New YorkのHilton hotelで開かれた,SMRM(Society of Magnetic Resonance in Medicine)に参加した.これは,特別研にいたときに既に決まっていたもので,私と佐藤さんのどちらかが出席することになっていたが,佐藤さんが順番を譲ってくれたので,私が参加することになったものである(佐藤さんは,翌年のLondonにおける大会に参加された).初めての国際学会で,Lauterburを始め,高名な人たちの発表もあり,また,企業展示も驚くようなものがあり,大変刺激的な学会だった.また,その学会が終わってから,医用機器事業部と共同研究を行っていたArizona大学の放射線科に立ち寄った.そこには,医用機器事業部から派遣されて滞在しているエンジニアがいて,色々とお世話になった.また,10日ぶりくらいに自宅に戻って,生後8か月くらいの長女を抱っこしたが,視線が合わず,忘れられていたようだった.

 

11-7. MEグループへの移動と企画書の作成と退職

私と佐藤さんが移動した電子研のMEグループ(MEG)は,伊藤阿耶雄さんがグループ長だった.MEGでは,超音波診断装置,患者モニター,血球カウンタなどをやっていた.元々は,MRIやCTなどもやりたかったそうだが,井上さんがやられていたので,とても手が出せなかったそうである.そこで,佐藤さんと私が移動したのを機会に,本格的に取り組むことにしたそうだ.そこで,血球カウンタをやっていた若手の久原重英さんと岡本和也さんが,MRIに参加することになった.それからは,自分で研究するだけでなく,若手の人たちを指導することも大きな仕事になった.後日,医用機器事業部を経て杏林大学保健学部の教授になった久原さんによると,特別研の部屋からMEグループの部屋に,佐藤さんと私の机を運んだのは,自分と同期入社の岡本さんだったそうだ.

メンバーも増えてきたので,もっと本格的な研究用のMRIシステムを開発しようという話が出てきた.というのは,ギャップが6 cmくらいの鉄芯電磁石では,できることが限られており,また,人体用MRIとは,かなり距離があるからである.また,以前から,高磁場超伝導磁石の導入を希望していて,それが縦型のワイドボア(89 mm)の超伝導磁石だったこともあり,その延長で,水平ボアで,動物実験もできるような30 cmくらいの口径の高磁場(4.7T)超伝導磁石の導入を考えた.

上記のような超伝導磁石は,購入すると1億円くらいはするので,研究目的を具体的にしないと導入は難しいということになり,「次世代MRI」という名称の企画書を作成することになった.この企画書の作成には,数カ月を要したと思ったが,時間を使った割には,あまりいいアイデアは出なかった.そして,この企画書を作成する内に,磁石は,社内で作る部署があるので,そこで作ったらどうかという話になった.

これは,総合電機メーカーの悪しき伝統で,既に市場化されていて,いいものがあるので,さっさと購入すればいいのに,わざわざ後追いで作ることで,プロジェクト全体が遅れるという典型的な悪例である.ただし,他の装置(エレクトロニクス系)も,同時に遅れたので,結果的にどのようになったかは,私は辞めてしまったので,何とも言えない.

ただし,これまでに使用していたMRIシステムは,さまざまな点で限界があったので,これを機会に,大幅に見直すことにした.特に集中したのは,パルスプログラマで,柔軟性のあるワードジェネレーター方式のものを設計した.このシステムは,私が辞めた後も,10年くらいは使っていたようだった.

その頃,筑波大学に移動していた井上多門先生から,講師を公募するので応募しないかというお話があった.そして,物理学会誌の1985年3月号に,1985年5月31日締め切りの公募が掲載された(図11-14).そこで,何とか書類を準備して応募した.応募する前に,一度,筑波大の物理工学系を下見にいった.まだ,長女が2歳ちょっとの頃だった.

公募の結果が判明したのは,11月頃だったと思う.総研の所長に呼ばれたり,慰留に近い話はあったが,初志を貫徹した.ただし,進行中の仕事には影響が出ないように,辞めるまで1日の有給休暇も取らず,仕事の引継ぎと,しばらくはできない実験を行った.このようにして,1985年12月28日退職(通算56カ月の勤務)で退職した.退職金は,税込みで12万5000円だった(図11-15).そして,退職後に来た年金連合会からの連絡に,これまでの勤務に対する厚生年金は,98,500円と書いてあり,それを60歳から毎年受け取っている.

また,職場を移るにあたり,引っ越さなければならないので新しい住居を探した.結局,私も家内も通える北柏に引っ越すことにした.

図11-14 物理学会誌に掲載された公募の記事          図11-15 退職金