第1章 生まれる前・ご先祖様など(~1953年1月15日)

私は,1953年(昭和28年)1月15日に佐世保市で生まれたが,場所は,母の実家(佐世保市藤原町)の川を挟んで向かい側の家だったと聞かされている.父は,巨瀬政男(図1-1)で,1923年(大正12年)1月14日の生まれ,母は,巨瀬千代海(旧姓鈴山)で,1927年(昭和2年)11月14日の生まれである.

巨瀬は,父方の祖父の姓で,父方の祖母の姓は浜田,母方の祖父の姓は鈴山,母方の祖母の姓は木寺である.父方の祖父の先祖は,佐賀県鹿島藩に所属しており(文献1),今でも,その地に,代々の巨瀬家の墓石があり,巨瀬の名前の家も,数軒,所在している.私は,2014年に,その地を訪れ,巨瀬家の源流を確かめることができた(図1-2).父方の祖父は,大正時代の初め頃に,当時,海軍鎮守府が置かれて,賑わいを見せていた佐世保市に転出して来たらしい.なお,巨瀬という姓は,全国的にも非常に珍しく,全国では,110人くらいしかいないそうである(図1-3).

 

図1-1 父の写真(20歳)        図1-2 巨瀬家の源流(佐賀県鹿島市)

 

図1-3 巨瀬姓の全国分布(人口は約110人)

 

父方の祖母は,長崎県西海市西海町面高(おもだか)郷の出身で,今でも,浜田という名前の家が一軒,存在している.ただし,この家が,私の祖母の親戚であるかどうかは不明である.私は,幼い頃に,佐世保港から船で,面高に行った記憶がある.その家には,牛が飼ってあり,トイレに行くときに,その前を通らなければならず,大変怖かった記憶がある.つい先日(2023年),2人の従姉(父の長兄の娘さん)に,車で,佐世保から面高に連れて行ってもらったが,私よりも2~4歳年長の従姉達は,面高に行って,川遊びをしていたことなどを話してくれた(図1-4と図1-5).

図1-4 面高港.左に針尾の無線塔が見える.     図1-5 面高から見た針尾の無線塔

 

母方の祖父の出身地は,良く分からないが,鈴山という家は,佐賀の多久藩(鍋島藩の支藩)の着到帳に,その名前が載っている.また,佐賀県内には,かなり広がっているらしく,祖父の直接の出身は,武雄市(旧杵島郡東川登村)のようである.なお,ネットによると,鈴山は,鍋島藩からもらった名前であり,佐賀県を中心に,全国で1,000人くらい分布している.

図1-6 鈴山姓の分布(人口は約1,000人)

 

母方の祖母の木寺という名前も,佐賀県を中心に分布する名前で,ネットには,佐賀鍋島藩の若様の守役だったと書いてある.この名前も,佐賀県を中心に,全国に4,000人くらい分布しているそうである.

図1-7 木寺姓の分布(全国で約3,700人)

 

江戸時代には,ごく一部の上層の武士階級を除き,藩外への人の移動は禁止されていたため,私のご先祖様は,3/4は佐賀(藩)県内,1/4は長崎県(大村藩)内に居住していたようである.そもそも,現在の日本の地域の原型は,古代の荘園が崩壊した,室町時代の半ば頃に形成されたと言われている.そして,そこからさらに遡ると,縄文人と弥生人の大陸からの渡来というところまで遡る.このあたりは,考古学的な世界であり,さらに,10~20万年前のアフリカで誕生したホモサピエンス,そして約6万年前のその出アフリカまで遡ることができる.これらは,全く,ロマンの世界である.

父は,男3人,女3人の兄弟姉妹の3男だったため,子供の頃に,坂田という家(福岡県)に,養子に出されたと聞いている.坂田の家では,後継ぎとして随分大切にされたそうだが,兄弟もなく寂しかったために,1年くらいで実家に戻ったらしい.ところが,戦前の民法では,家制度があり,坂田家では長男だったため,名前を戻すのは難しかったが,昭和22年12月5日に結婚したときには,既に,その年の5月2日に民法が改正されて家制度がなくなっていたこともあり,その機会に,新たな戸籍を作り,巨瀬姓に戻ったそうである.母は,結婚前は,ずっと,坂田さんと呼んでいたため,結婚後に,巨瀬という珍しい名前になって,少し戸惑ったそうである.

父は,昭和18年1月14日に成人となり,その年に徴兵検査を受けたが,乙種合格となったため,すぐには徴兵されず,佐世保の海軍工廠で働いている途中に,半ば興味もあって,中国の海南島に海軍の軍属として行くことになったそうである.恐らく,現地の海軍工廠で,艦船や兵器の修理やメンテナンスなどを行っていたのだろう.ところが,戦況が振るわず,現地で招集されて中国本土に移動し,終戦時は,一等兵だったそうである.その頃のことはあまり聞いていないが,終戦後は,しばらく,現地で捕虜収容所に入っていたそうである.でも,中国南部は,ソ連が攻め込んできた中国北部とは異なり,悲惨な体験はなかったそうである.

復員後,父は,しばらく何をしようかと考えていたそうだが,たまたま,西部ガス(株)という会社に入ることになったそうである.父は,自分のやりたいことを探していたそうだが,結局,その会社に56歳の定年まで勤めることになった.母と知り合ったのも,その会社だそうである.西部ガスは,ソフトバンク球団のホームスタジアムでも,外野フェンスに大きな広告を出しているので,それを見る度に父のことを思い出す.子供の頃は,自分の家が,特に裕福だとも貧乏だとも思っていなかったが,当時の基準では,平均的な水準だったようだ.

いっぽう,父の長兄(利男)は,徴兵検査で甲種合格となり,徴兵後,戦地で両頬を銃弾が貫通したため,傷痍軍人として,陸軍病院に入院していたらしい.父の次兄(虎男)は,徴兵され,現在のミャンマー(昔のビルマ)で戦死したと聞いている.私の実家の隣に,父の長兄の家があり,そこに,祖母も一緒に住んでいたため,その家には仏壇があり,その亡くなった次兄の遺骨と写真が飾ってあった.私が小さい子供の頃は,自宅も隣の伯父の家も区別なく,無断で行き来していたため,よく,その仏壇を眺めていた.

母は,3人兄弟5人姉妹の次女で,戦前は,家族全員で朝鮮半島に移住し,そこで,しばらく,リンゴ園を経営していたらしい.ところが,理由は不明だが,祖父が,目先の利く人であったためか,戦争が終わる前に内地に戻り,佐世保に居を構えていた.そして,その家で空襲に遭って,近くに焼夷弾が落ちてきたそうである.祖父は,その頃,もう40歳を超えていて,徴兵はされていなかったが,長崎に原爆が落とされたときには,救援のために長崎に行ったそうである.

文献1:佐賀藩着到帳集成,佐賀県立図書館内古文書研究会, 1981.2