第9章 大学院修士課程(1976年4月~1978年3月)

9-1. 研究室生活のスタート

大学院に進学するにあたり,まず,それまで4年間生活していた,代々木の東京学生寮を出て,大学の近くのアパートに引っ越した.そのアパートは,本郷の不動産屋の店頭の案内を見て決めたものである.確か,1月で23,000円だったと思う(その後,毎年1,000円ずつ値上げされた).なお,アパートと言っても,6畳一間で,小さな台所がついていて風呂はなく,トイレは3人の住人で共同だった.大学が近かったので,たまに,色んな人が泊まりに来た.リチウムイオン電池の材料の発明でノーベル賞候補になった水島公一さんも,何度か泊まりに来られた.

アパートは,炭団坂という有名な坂の途中にあった(図9-1).炭団坂の上には,坪内逍遥の旧宅があり,この地に住んでいた三年間に,坪内逍遥は「小説神髄」,「当世書生気質」を発表し,当時の近代文学に大きな影響を与えたと言われている.そんなことから,この炭団坂は,近代文学発祥の坂道とも呼ばれているそうである.また,1981年にフジテレビで放映された「本郷菊坂赤門通り」というテレビドラマ(古谷一行,大場久美子,香山美子など出演)では,この坂が何度も出てきて,ドラマの舞台となった学生ホテルの「菊坂ホテル」は,そのアパートの場所にあったような想定だった.

お風呂としては,菊水湯という,明治の半ばに創業された風呂屋に通っていた(図9-2).また,その頃,コイン式の洗濯機もあったので,大変重宝した.独立したコインランドリーができたのも,ちょうどこの頃だった.菊水湯は,2015年に廃業し,跡地にはマンションが建ったそうである.

図9-1 炭団坂.左がアパートの入口.木製.           図9-2 しばしば通った菊水湯

 

大学院から所属することになった磁性実験研究室(飯田修一研究室)は,東北大学出身で初めての東大総長になられた茅誠司先生(図9-3)の後継研究室であったが,飯田先生の後継ぎがなく,研究室はこの代で途絶えた.

茅先生は,東京高等工業(東工大の前身)から東北大に進まれ,その後,本多光太郎先生(図9-4)の助教授になられ,その時に,鉄,ニッケル,コバルトの磁気異方性を計測して,世界的に有名になられた方である(Kittelの教科書にも載っている).その後,北大の教授に転出され,昭和18年に,本多スクールの磁性実験の伝統を東大に取り入れるべく,東大教授に就任された.茅先生が,東大で活躍されたのは,戦後になってからで,文部省の局長を兼任したり,日本学術会議会長になられたり,戦後の日本の科学技術の復興と振興に,随分活躍されたようである.このため,戦後日本の科学技術界に,大きな影響力を長く保持されていた.

図9-3 茅誠司先生                    図9-4 本多光太郎先生

 

当時の飯田研究室は,飯田教授,水島公一助手,溝口森二助手,植木昭勝技官のスタッフから構成され,私が修士1年生のときは,研究生(OD)が1名,博士2年生が1名,博士1年生が3名,修士2年生が2名,そして同期の潮田浩作君と,学生だけでも9名いた(図9-5,図9-6).そして,この他に,2人程度の卒研生がいた.

私が,特に親しく指導していただいた先輩は,D2の梅村鎮男さんだった.梅村さんは,東大入試がなかった年に京大に入学され,大学院の時に東大に来られた方である.修士論文における研究では,特に随分お世話になったが,それについては,次の節で述べる.

さて,飯田研究室の1週間は,月曜午前中の研究室のセミナーから始まった.すなわち,助手や学生が,輪番で,自分の選んだ原著論文を紹介するのが習慣だった.そして,月曜日の午後は,御殿下グラウンドで野球の練習をするのが,いつものルーチンだった.さらに,たまに,月曜日の夕方から研究室でビールを飲んだり,お花見の頃は,上野公園に出かけることもあった.また,朝は,10時頃を目安に学生は来ていたが,夕食はみんなで近くの食堂(森川町食堂)にでかけ,夜は,終電近くまでいる人が多かった.

図9-5 研究室の一コマ(1979年5月,D1)           図9-6 研究室の一コマ(1979年5月,D1)

 

9-2. 修士論文における研究

修士論文の研究テーマは,入学時に,飯田先生の思い付きで,「Fe2TiO4の単結晶を作ってそのメスバウワー効果を測ること」となったが,実際に進めるにあたっては,梅村さんと技官の植木さんに,大変お世話になった.

このようなテーマになったのは,当時,研究室では,Fe3O4(マグネタイト)における,電子の秩序-無秩序転移(Verway転移)の研究が行われていたが,このFeをTiに置き換えることにより,相対的に増加するFe2+がどのような性質を示すか,という疑問からであった.

そこで,植木さんには,赤外線集中加熱炉という,楕円体の一つの焦点にハロゲンランプなどの加熱源を置き,もう一つの焦点に試料を置く結晶成長装置でFe2TiO4の単結晶を作っていただいた.また,梅村さんには,磁化測定などの実験全般と,共通のユーザーであったメスバウワー効果の測定の指導で,特にお世話になった.

一方,メスバウワー装置では,γ線の線源を,加振器を用いて低周波(10 Hz程度)で振動させていたが,この低周波を生成するRC発振器の周波数安定性が問題となっていた.そこで,安定した周波数を発生するために,波形をデジタル的に発生させることを思いつき,三角関数の波形を記憶させたROM(read only memory)とDA変換器により,波形発生器を作成した.また,ROMの書き込み器も自作した.これらは,主に卒研の時に山本研で身に着けたデジタル技術によるものであったが,子供の頃からの電子工作の技術も,このようなところで役に立った.さらに,この技術は,会社に入ってからの,MRIにおけるマルチスライス技術の開発にも大いに役に立った.

以上のようなことから,何とか修士論文をまとめることができ,Journal of Physical Society of Japanという雑誌に,Study of single crystal Fe2TiO4 by the Measurement of Magnetization and Mössbauer Spectraという最初の論文を投稿することができた(1979年).

 

9-3. マイクロコンピュータシステムの構築

修士の時に研究以外に熱中したことは,マイクロコンピュータ(マイコン)システムの構築である.

コンピュータに関しては,大学に入学していた頃からずっと,いつかコンピュータを作ってみたいと考えていた.マイクロコンピュータが米国で開発されたという噂は聞いていて,卒研でも,小柴研究室では,当時,売り出されていたAltair 8800(インテルの8080を使ったマイコンキット)を使ったテーマがあったと思う.ところが,国内の研究室では,ミニコンが全盛期で,結局,ミニコンを使ったテーマのあった山本研を選んだ.結果論だが,そこで,ミニコン,LSI,TTL ICの勉強をじっくりできたことは,その後の研究に大いに役に立ったと思う.

その頃,「トランジスタ技術」という電子工作のベストセラー雑誌に,マイコン関係の記事が載り始めた.確か,1976年の10月~12月号に,モトローラの8ビットマイコン6800(図9-7)を使ったマイコンシステムの製作記事が連載されたので,これを見て作ろうと思い,秋葉原の若松通商などで部品を購入し製作を始めた.確か,MC6800が,14,000円だったと思う.

その時に作ったシステムの写真は残っていないが,そのCRTグラフィックディスプレーボード(256×192ドットくらい)だけは,奇跡的に手元にあったので,その写真を示す(図9-8).このシステムには,パネルに,16ビットのアドレスと8ビットのデータを指定するためのトグルスイッチと,それらを示す発光ダイオードがあり,プログラムは,これらのスイッチでスタティックメモリに直接書き込んだ.そして,その後に,システムリセットをかけて,メモリの0番地からプログラムをスタートさせるようになっていた.また,その後,32ワードのIPL(initial program loader)を手で入力し,これを用いて,カセットテープからプログラムをロードできるように改造した.

修士のときは,このシステムを作るだけだったが,博士課程の時には,これを比熱の自動測定システムの構築に活用した.

図9-7 マイクロプロセッサM6800              図9-8 CRTディスプレイボード